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本田泰人の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第141回】

本田泰人は身長166センチと小柄ながら、粘り強いマンマークと身体を張って相手を止めて危険なスペースを消すボランチとして活躍した。

1993年には鹿島アントラーズの1stステージ優勝に貢献し初代Jリーグベストイレブンに輝いた。

その後も15年に渡り鹿島アントラーズ一筋でプレーし、キャプテンとしてチームを牽引し、アントラーズ黄金時代を支えた。

豊富な運動量で決定的な仕事をさせない本田泰人の献身的なプレーは日本代表としても貴重な戦力となった。

本田泰人のプロ入り前


本田は1969年に福岡県北九州市に生まれた。

元々は野球少年だった本田だったが、小学校6年の時に父親の勧めもありサッカーを始める。

北九州市立響南中学校(現若松中学校)入学後はサッカー部の練習後に毎日父親と猛練習を行い、強靭な足腰と体力を身につけた。

中学校卒業後は東京の帝京高校へ進学する。

帝京高等学校サッカー部では飯島寿久礒貝洋光森山泰行と同期であった。

磯貝とは中学時代からの親友であり熊本出身の磯貝と共に九州選抜に選出されるなどした。

高校3年のときにMF礒貝やFW森山らと共に全国高校サッカー選手権に出場。

優勝候補として挙げられるも準々決勝でMF澤登正朗を擁する東海大一(現東海大翔洋)高にPK戦の末敗れた。

高校を卒業した本田泰人は1988年に本田技研へ入団する。

本田技研には北澤豪黒崎久志古川昌明勝矢寿延などがいた。

それまでFWとしてプレーしていた本田はこの頃にボランチに転向している。

Jリーグがスタートする事が決まったが本田技研はJリーグ参入を表明せず、1992年にブラジルのスター選手であるジーコがいる住友金属サッカー部(現鹿島アントラーズ)と対戦した事をきっかけに鹿島アントラーズへ移籍し、プロ契約を結ぶ。

本田泰人のプロ入り後

本田泰人は1993年5月16日のJリーグ開幕戦である名古屋グランパスエイト戦に先発出場を果たす。

サントスとコンビを組んで初年度から不動のボランチとして君臨し、ジーコやアルシンド、本田技研時代から共にプレーした黒崎久志長谷川祥之ら攻撃陣の充実もあり、鹿島アントラーズは1stステージで優勝。

本田泰人は献身的な守備が評価され、ベストイレブンに選出された。

1994年にジーコが引退すると、25歳の本田泰人は2代目キャプテンに就任。

1995年には守備的な選手ながら3試合連続ゴールを飾る。

同年に日本代表に初招集され、10月24日のサウジアラビア戦で代表デビューを飾った。

日本代表では運動量と相手のエースを封じ込める本田の代名詞と言われた「すっぽんマーク」が加茂周監督に評価され、1996年には13試合、1997年には14試合に出場しボランチとして活躍し日本のフランスワールドカップ出場に貢献。

1998年のワールドカップ出場も期待されたが、ボランチには名波浩や山口素弘が選出され登録メンバーからは漏れた。

その後も本田は鹿島アントラーズ一筋でプレー。

2000年には、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯を制覇し、ついにJリーグ発足以来初の三冠を達成し、2001年にはリーグ連覇も達成した。

その後は中田浩二の台頭もあり徐々にスタメン出場が減っていくも、豊富な運動量と献身的な守備力は健在でチームが逃げ切りたい時に投入され仕事をする貴重な役割をこなした。

2005年の最終節柏レイソル戦では途中出場し、PKを決めて8年ぶりとなるJリーグでの得点を挙げた。

翌年の2006年、リーグ戦8試合の出場に留まりこの年限りで15年プレーした鹿島アントラーズを退団。

他チームからのオファーもあったが、鹿島アントラーズ以外でプレーするイメージがわかないとし、現役を引退した。

翌2007年、JリーグアウォーズでJ功労賞を授与された。

本田泰人の引退後と現在

本田は引退後、故郷福岡県北九州市若松区において、2010年3月にサッカースクール(小1~中3対象)を開校。

2013年3月からFC町田ゼルビアに強化・スカウト担当スタッフに就任。

その後は埼玉県内にステーキハウスUS・6をオープンするなど実業家としても活動する傍ら、サッカー解説者や鹿島アントラーズのアドバイザーを務めている。

本田泰人は現役時代、Jリーグ通算328試合に出場し、日本代表としても29試合に出場した。

鹿島アントラーズの黄金時代を支えたキャプテンとして、柳沢敦小笠原満男も本田泰人のリーダーシップを絶賛するなど本田のキャプテンシーには光るものがあった。

サッカー選手にとって移籍はつきものだが、15年に渡り鹿島アントラーズに在籍し、必要とされ続けた本田泰人はミスターアントラーズと呼ぶに相応しい選手である。

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