1994年の彼の加入はサンフレッチェ広島にとって幸運だったといえるだろう。
GK以外ならどこでも高いレベルでこなせるユーティリティプレーヤー、イワン・ハシェック。
2列目のストライカーとして多くの得点を生み出し、1stステージ優勝に貢献。チェコ代表として1990年、1994年と2大会連続でワールドカップに出場した実力派はJリーグでも83試合に出場し42得点を挙げる活躍を見せた。
ハシェックはサッカーだけでなく、法学部を卒業し弁護士資格も取得するなど秀才としても知られる。
ハシェックのJリーグ入り前
ハシェックは1963年にチェコのミェステツ・クラーロヴェーに生まれた。
1970年、ハシェックが7歳の時にチェコスロバキアのクラブチーム・ニンブルク(ZOM Nymburk)に入りユース時代を過ごす。
1981年、ハシェックは18歳でチェコ1部リーグのスパルタ・プラハとプロ契約を結ぶ。
スパルタ・プラハでは攻守のどのポジションでもこなせるユーティリティプレーヤーとして活躍し、1985年から4年連続でチェコリーグベストイレブンに選出。1987年から2年連続でチェコ最優秀選手に選ばれるなどハシェックはチェコを代表する選手となったが、当時のチェコでは海外移籍が長らく認められていなかった為、国内でのプレーが続いた。
また学業も優秀だったハシェックは、中欧において最も歴史を有する大学であるプラハ・カレル大学に進学。弁護士免許を取得した。
1984年にはチェコ代表に選出。1990年、イタリアW杯では主将を務めたハシェックは背番号4をつけ主に右サイドバックを担った。
準々決勝で西ドイツにPKを決められ0-1で敗戦してしまうがハシェックは絶妙なポジショ二ングでクリンスマンやブッフバルトの決定的なシュートを防ぐなど活躍。試合に敗れはしたものの、ハシェックはワールドカップ優秀選手に選出された。
この活躍により1990年にフランス2部リーグのストラスブールへ移籍。
ハシェックは2年連続で二桁得点を挙げ、ストラスブールの1部昇格に貢献。
ストラスブールでのハシェックの貢献度は高く、退団後も地元では暫く「ハシェックのチームであるストラスブール」と呼ばれていた。
1994年、サンフレッチェ広島からオファーを受けたハシェックは日本で新たなチャレンジをする為に入団を決意する。
ハシェックのJリーグ入り後
1994年3月12日第1節サンフレッチェ広島戦で、後半から島卓視に代わってJリーグ初出場を遂げる。
続く第2節のガンバ大阪戦からは先発出場。この試合でハシェックはコーナーキックからのこぼれ玉をを押し込み、Jリーグ初ゴールを延長Vゴールで飾る。
ハシェックが加入したサンフレッチェ広島は開幕戦から6連勝と快進撃を続ける。
アジアの大砲と呼ばれたFW高木琢也、現役韓国代表のFWノジュンユン、豪快なドリブルと強烈なシュートが魅力のMFチェルニーが攻撃を盛り上げ、元日本代表MF風間八宏、森保一ら中盤が潤滑油となり、DF柳本啓成、佐藤康之、片野坂知宏、森山佳郎、GK前川和也らが堅守で支えるという歯車が噛み合う。
名将バクスター監督の元、スペクタクルなパスサッカーで切り崩す方針をベースにスタメンやポジションを固定しない戦術が功を奏した。
しかし第7節で苦手とするヴェルディ川崎でこれまでの快進撃が嘘であるかのように0-5での大敗を喫すると、そこから清水エスパルスにも敗れ3位に転落。開幕から好調を続けたサンフレッチェの躍進もここまでかと思われた。
だがここからサンフレッチェ広島は息を吹き返す。そこから5連勝を記録し、再び首位に立った。
そして第17節で再び苦手とするヴェルディ川崎と対戦。ここでハシェックがサンフレッチェ広島初となるハットトリックを達成するなど4-1で大勝。シャドーストライカーとしての本領を発揮した。
第19節清水エスパルス戦ではエース高木琢也が復調し2-1で勝利。悲願の初優勝へのカウントダウンが始まった。
第20節のジェフ市原戦では前半に片野坂知宏のクロスをハシェックがヘディングで先制ゴールを挙げる。身長171センチのハシェックだったがDF2人に競り勝ってのゴールだった。
ハシェックは高木琢也と2トップを組み、サイドやダイアゴナルに献身的に動き高木のマークを外すなど、その攻撃センスは冴え渡った。このジェフ戦にも4-1で勝ったサンフレッチェ広島はついに優勝に王手をかける。
そして第21節のジュビロ磐田戦を2-1で勝利で飾ったサンフレッチェ広島は1stステージ覇者となった。徹底されたシステマチックなサッカーが身を結んだ結果となったが、紛れもなくハシェックはその中心部であった。
ハシェックはこのシーズン、32試合に出場し19得点を挙げチーム得点王となった。
しかし宿敵であるヴェルディ川崎とのチャンピオンシップでは2敗を喫し年間王者とはならなかった。
続く1995年もサンフレッチェでプレー。4月12日8節名古屋戦では2度目となるハットトリックを達成するなどこのシーズンも二桁得点を達成したが、怪我の影響もありNICOSシリーズは欠場が続いた。
1996年はジェフ市原へ移籍。
FW城彰二の後ろに位置するセカンドストライカーとして、司令塔マスロバルと攻撃を牽引。
28試合に出場し12得点を挙げ、ハシェック自身Jリーグでの3シーズン連続二桁得点を達成。
ハシェックはこのシーズン限りでジェフ市原を退団。1996-1997シーズンからは古巣であるスパルタ・プラハに復帰。
2シーズンプレーし、1998年に現役を引退した。
ハシェックの引退後と現在
ハシェックは引退後、チェコ代表のアシスタントコーチを歴任。
その後は選手時代に在籍したスパルタ・プラハやストラスブール で監督を歴任した。
その後はヴィッセル神戸監督、ASサンテティエンヌ監督、チェコサッカー協会会長、アルアハリ監督などを務め、2014年からはカタールSCの監督に就任するなど指導者としても優秀な経歴を重ねている。
1994年、ハシェックがもたらしたインテリジェンス溢れるサンフレッチェの攻撃は個々の持ち味が十分に発揮され、見ているサポーターからしても面白い試合が多かった。
組織的サッカーではヒーローは要らないと名将バクスターは語った。しかしハシェックの加入により個々の融合が実現し、連動性が生まれた。
ヒーローではなかったとしても、1994年サンフレッチェ広島優勝の立役者はハシェックといっても過言ではないだろう。