鄭大世(チョンテセ)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第513回】
「アジアのブルドーザー」と呼ばれたストライカー。
強靭なフィジカルを生かした突破力と、豪快なシュートでゴールを量産したのが鄭大世だ。
川崎フロンターレでプロ生活をスタートさせると、Jリーグを代表するストライカーへと成長。
その後はドイツ、韓国でもプレーし、再び日本へ帰国した。
清水エスパルスでは2016年にJ2得点王となり、チームのJ1昇格に大きく貢献。
そして、北朝鮮代表として2010年南アフリカワールドカップにも出場した。
日本で生まれ育ちながら韓国籍を持ち、朝鮮学校で学び、北朝鮮代表として世界の舞台に立った。
その生い立ちも含め、非常に個性的なサッカー人生を歩んだ選手だった。
鄭大世のJリーグ入り前
鄭大世は1984年3月2日、愛知県名古屋市に生まれた。
父は在日韓国人2世、母は在日朝鮮人2世。
鄭大世自身は韓国籍だったが、母親の方針もあり、幼少期から朝鮮学校で教育を受けた。
愛知朝鮮初級学校、東春朝鮮初中級学校、愛知朝鮮中高級学校へ進学。
そして朝鮮大学校へ進んだ。
朝鮮大学校時代には大学リーグでプレー。
当時の所属は東京都大学リーグ3部だった。
決して、誰もが知るエリートコースではなかった。
それでも鄭大世は、強靭な身体能力とゴールへの強い執着心を武器に得点を重ねていった。
そして2005年12月、川崎フロンターレへの加入が内定。
朝鮮大学校から直接Jリーガーになることになった。
川崎からのオファーを受けた鄭大世は、
「幼い頃から憧れていた夢のJリーグに入ることができた」
と喜びを語っている。
2006年、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。
鄭大世のJリーグ入り後
2006年。
鄭大世は川崎フロンターレに加入する。
プロ1年目はJ1リーグ16試合に出場。
7月19日の大宮アルディージャ戦でJリーグ初ゴールを記録した。
この年の川崎には、ジュニーニョ、中村憲剛、我那覇和樹ら攻撃陣に強力な選手が揃っていた。
その中で鄭大世も徐々に存在感を高めていく。
2007年にはリーグ戦24試合で12得点。
一気に得点力を開花させた。
さらにAFCチャンピオンズリーグでも2得点を記録。
強引なドリブル突破。
相手DFを背負ってのポストプレー。
そして、強烈なシュート。
川崎の前線で、鄭大世の存在感は日に日に大きくなっていった。
2008年にはリーグ戦33試合で14得点。
2009年も29試合で14得点を記録した。
2年連続でリーグ戦14ゴール。
川崎の攻撃を支えるストライカーとして、Jリーグを代表する存在となっていった。
2009年には川崎がJ1リーグで2位となり、クラブ史上初のリーグ優勝にはあと一歩届かなかったものの、鄭大世自身はキャリアの絶頂期を迎えていた。
そして、もう一つの大きな舞台があった。
北朝鮮代表だ。
韓国籍を持つ鄭大世だったが、2007年に北朝鮮代表へ初選出された。
朝鮮学校で育った鄭大世にとって、北朝鮮代表としてプレーすることは大きな意味を持っていた。
そして2010年。
北朝鮮は44年ぶりにワールドカップ出場を果たす。
鄭大世もそのメンバーに選ばれた。
南アフリカワールドカップ。
北朝鮮の初戦の相手は、ブラジルだった。
試合前、北朝鮮国歌が流れる。
そのとき、鄭大世は涙を流した。
日本で生まれ、日本で育ち、韓国籍を持ちながら、北朝鮮代表として世界最高峰の舞台に立つ。
その複雑な背景と、幼い頃から抱いてきた夢。
さまざまな思いが涙となって表れた。
この場面は世界中に放送され、鄭大世の名前を一躍世界へ知らしめることになった。
試合でも前線で身体を張り、ブラジルの守備陣を苦しめた。
北朝鮮は1-2で敗れたものの、鄭大世は強烈な印象を残した。
そしてワールドカップ後、鄭大世は海外へ挑戦する。
2010年7月、ドイツ・ブンデスリーガ2部のVfLボーフムへ完全移籍。
川崎で積み上げた実績を武器に、ヨーロッパへ渡った。
ボーフムではブンデスリーガ2部を中心にプレー。
2011年には入れ替え戦も経験した。
そして2012年には1.FCケルンへ移籍。
しかし、ケルンではチームの降格も経験する。
ドイツで成功と挫折の両方を味わった。
2013年には韓国へ渡り、水原三星ブルーウィングスへ加入。
韓国でもゴールを重ね、2015年までプレーした。
Kリーグでは72試合23得点を記録。
ドイツ、韓国と海外で経験を積んだ鄭大世は、2015年7月、再び日本へ戻ってくる。
移籍先は清水エスパルスだった。
清水加入時、鄭大世はすでに30歳を超えていた。
しかし、かつて川崎で見せていた豪快なストライカーから、少しずつプレースタイルを変化させていた。
清水側も、得点力だけではなく、ポジショニング、アシスト、守備などを含めた「万能型のストライカー」として評価していた。
2015年はシーズン途中の加入となり、J1で13試合4得点。
そして2016年。
鄭大世のキャリアでも特に印象的なシーズンとなった。
清水はJ2で戦っていた。
その中で鄭大世はゴールを量産。
リーグ戦37試合に出場し、26得点を記録した。
J2得点王を獲得。
さらに10月から11月にかけて7試合連続ゴールを記録するなど、清水のJ1昇格を力強く牽引した。
清水はJ2を2位で終え、1年でJ1へ復帰。
鄭大世は、チームにとって欠かせない存在となった。
2017年には清水の副キャプテンを務める。
リーグ戦23試合で10得点。
2018年は18試合3得点。
2019年は13試合2得点。
得点数は徐々に減少していったものの、経験豊富なストライカーとしてチームを支えた。
2020年は清水で2試合に出場した後、アルビレックス新潟へ期限付き移籍。
新潟ではJ2リーグ26試合で9得点を記録した。
シーズン終了後、清水との契約が満了。
2021年からFC町田ゼルビアへ移籍する。
町田ではベテランとして若い選手たちを支えながらプレー。
2021年は33試合で5得点。
2022年も34試合で6得点を記録した。
そして2022年10月。
鄭大世は、このシーズン限りでの現役引退を発表した。
2006年に川崎フロンターレでプロになってから17年。
鄭大世のプレースタイル
鄭大世といえば、やはり強烈なフィジカルだろう。
身長181cm、体重80kg。
しかし、数字以上に身体の強さを感じさせる選手だった。
相手DFを背負いながらボールを受ける。
そのまま身体をぶつけながら前を向く。
そして強烈なシュートを放つ。
まさに「アジアのブルドーザー」と呼ばれるにふさわしいプレースタイルだった。
川崎時代には、強引なドリブル突破も大きな武器だった。
相手DFが複数人で対応してきても、フィジカルを生かして前へ進む。
ゴール前では左足、右足のどちらからでもシュートを狙う。
高い打点のヘディングも得意としていた。
川崎フロンターレも2007年当時、「ずば抜けた身体能力を活かしたパワフルなシュート、高い打点のヘディング、強引なドリブル突破」をプレーの特徴として紹介している。
しかし、キャリア後半になるとプレーは変化していった。
清水加入時に本人も、川崎時代のような鋭さや荒々しさはなくなった一方で、「全体的な能力が高まった」と語っている。
単純に自分でゴールを奪うだけではない。
味方を生かす。
守備にも参加する。
前線から相手にプレッシャーをかける。
そして、チームのために身体を張る。
年齢と経験を重ねることで、ストライカーとしての幅を広げていった。
特に2016年の清水では、ゴール前での決定力だけではなく、前線でボールを収める役割も大きかった。
味方からのロングボールを身体で受け止める。
相手DFを引きつける。
そして味方へ落とす。
そこから攻撃が始まる。
得点だけではなく、攻撃の起点にもなれるストライカーだった。
鄭大世の引退後と現在
2022年に現役を引退した後も、鄭大世はサッカー界で活動を続けている。
現役時代からの豊富な経験を生かし、サッカー解説やメディア出演などで活躍。
また、2023年にはJリーグから功労選手賞を受賞した。
Jリーグ公式の記録では、J1通算181試合65得点、J2通算130試合46得点。
リーグカップ33試合8得点、天皇杯18試合9得点、Jクラブ参加の国際大会30試合8得点を記録している。
国内外を合わせた長いキャリアの中で、数多くのゴールを残した。
振り返れば、鄭大世のサッカー人生は決して平坦ではなかった。
大学リーグ3部からのスタート。
そこからJリーガーになり、川崎でJリーグを代表するストライカーへ成長。
北朝鮮代表としてワールドカップに出場し、ドイツへ渡った。
その後は韓国へ移籍し、30歳を超えてから日本へ戻った。
清水ではJ2得点王となり、チームをJ1へ導いた。
そして町田でスパイクを脱いだ。
日本で生まれ育った。
韓国籍を持っていた。
朝鮮学校で学んだ。
そして北朝鮮代表としてワールドカップに出場した。
その人生は、普通のサッカー選手とは少し違っていた。
しかし、ピッチに立てば話は別だった。
相手DFに身体をぶつける。
ボールを奪いにいく。
ゴールへ向かう。
そして、最後まで諦めずに走る。
「アジアのブルドーザー」と呼ばれたその姿は、多くのサッカーファンの記憶に残っている。


