左足から繰り出される正確なクロスを、幾度となく配給し続けた左サイドバック服部公太。
リーグ戦218試合連続フルタイム出場などの様々なJリーグ記録を打ち立て、骨折をしてでも出場を続けるそのスタイルから「鉄人」という異名を持った。
攻撃的なサイドバックであり、スピードに乗ったオーバーラップからの正確なクロスで好機を演出。
そのプレースタイルは他の追撃を許さず、サンフレッチェ広島史上最高の左サイドバックとして呼び声が高い。
服部公太のJリーグ入り前
5歳の時に兄の影響でサッカーを始める。
香澄小学校卒業後、習志野七中学校に入学。
中学校時代は攻撃的なポジションでのプレーを経験した。
中学卒業後は、千葉県千葉市にある渋谷教育学園幕張高等学校へ進学。
選手権では2年次に千葉県予選で市立船橋にPK戦の末に敗れて出場を逃した。
3年次も準決勝で市立船橋と対戦し0-2で敗れている。
高校3年次には福島県で行われた国体に、千葉県選抜として御厨景、廣山望、北嶋秀朗、城定信次らとともに出場し、優勝候補といわれた静岡県選抜を下して優勝している。
また、この活躍を受けU-18日本代表に選出されている。
高校時代もDFでなく攻撃的なMFとして名を馳せた。
高校卒業後、サンフレッチェ広島へ入団する。同期入団に影山貴志、金本圭太、高田純、山口哲治、秋満勝二、上田実がいる。
服部公太のJリーグ入り後
1996年にサンフレッチェ広島に入団した服部は、この年の最終節である第30節横浜マリノス戦でベンチ入りを果たすと、後半19分に同じ左サイドバックの路木龍次と交代で出場しデビューを飾る。
1997年は開幕戦から左サイドバックとして出場。その後も左ウイングやサイドバックで安定したプレーを見せるも、日本代表としてプレーしていた路木龍次が怪我から復帰するとベンチに回ることになった。
1998年は路木龍次が横浜マリノスへ移籍したことにより、左サイドバックのレギュラーを確保。以降、不動の左サイドバックとして長年に渡り活躍することになる。
2000年にはサンフレッチェユースから駒野友一がトップに昇格し、左の服部、右の駒野の両翼は広島の大きな武器になる。
2001年はチームが残留争いをする苦しいシーズンとなり、服部自身も両足の怪我を抱えながらも出場を続け、残留に貢献する。
2002年は怪我の影響もあり、リーグ戦21試合の出場に留まりチームもJ2に降格。服部にはJ1チームへの移籍話も噂されたが残留を表明した。1年でのJ1復帰の原動力となった。
同年11月から2007年10月まで、連続フルタイム出場を記録した。
また2007年にはキャリアハイとなる12アシストを記録。日本代表で活躍した佐藤寿人と息の合ったプレーを見せ、多くの好機を作った。
佐藤は服部について「間違いなく日本代表レベルの選手」と後年語っている。
2008年にサンフレッチェは2度目のJ2降格を経験するが、服部は残留し、1年でのJ1復帰に貢献。J2ながらリーグ戦4得点を挙げた。
2010年に川崎フロンターレから移籍してきた山岸智が左サイドで起用される機会が増え、次第に出場機会が減っていった。
2011年にはルーキーイヤー以外で自己最少となるリーグ戦17試合の出場に留まり、この年限りでサンフレッチェ広島を退団する。
2012年はJ2のファジアーノ岡山へ移籍。
影山雅永監督のもとで貴重なベテランとして期待され、開幕戦から先発出場を続けるも、フル出場の機会は少なかった。
最終節である11月11日モンテディオ山形戦で途中出場し2-0での勝利に貢献。服部にとってこの試合がプロでのラストゲームとなった。
服部公太の引退後と現在
2013年、服部は引退後、サンフレッチェ広島ユースのコーチに転身。
その後はファジアーノ岡山U-18監督、創志館学園高等学校サッカー部コーチを歴任。
2023年からは広島経済大学サッカー部の監督に就任している。
服部公太はその鉄人ぶりが注目を集めたが、フェアプレー賞を受賞したことからも非常にクリーンなプレーをする選手としても知られた。
サイドバックは相手選手との接触も多く、運動量も多いポジションだ。
その中でリーグ戦218試合連続出場を達成するのは至難の業であるし、チームからの絶大な信頼がないと達成できない偉業だ。
左足のキックが正確で、運動量もあり、怪我に強くて、おまけにクリーンなプレーをする服部公太。フル代表に呼ばれなかったのが不思議な選手である。