両サイドバックはもちろん、ストッパーやボランチなど守備的なポジションならどこでもこなせるディフェンスのユーティリティプレーヤー中村忠。
サイドアタッカーとしてチャンスメイカーの役割をこなし、攻守ともにチームを支え続けた。
ミニラという愛称でファンからも親しまれ、黄金期のヴェルディ川崎や京都パープルサンガで活躍した。
日本代表としても16試合に出場し、加茂周監督や岡田武史監督からの信頼も厚く、日本代表が初めてワールドカップ出場を決めたジョホールバルの歓喜の際もベンチ入りしていた。
守備のスペシャリスト、中村忠に迫る。
中村忠のプロ入り前
瑞穂第三小学校に入学し、6歳からサッカーを始め、東京都サッカー連盟が主催するさわやか杯で準優勝を果たす。
その後は瑞穂中学校に進み、読売SCユースに入団。
中村は進学校である都立立川高校、成蹊大学文学部英米文学科を卒業することになるが、サッカーは読売ジュニオールを経て読売クラブ(現東京ヴェルディ)に入団するなど、一貫して読売で学ぶ。
15歳から年代別代表に呼ばれ、U-16世界選手権と1988年Wユースの予選に出場する。
1990年。中村忠が19歳の時にトップチームである読売クラブで日本サッカーリーグデビューを果たす。
Jリーグ開幕に向けてプロ化が進み出し、中村自身も1992年にヴェルディ川崎とプロ契約を結んだ。
中村忠のプロ入り後
プロ契約を果たした中村は、初年度からヴェルディの主力として活躍。
開幕カードである国立競技場で行われた1993年5月15日のヴェルディ川崎対横浜マリノス戦にも右サイドバックとしてスタメン出場を果たす。
初年度はリーグ戦34試合に出場し2得点を挙げた。
その後も堅実な守備で黄金期のヴェルディを支え、1999年途中までチームに在籍。
Jリーグ優勝やナビスコ杯、天皇杯など多くのタイトルをヴェルディにもたらした。
日本代表には1995年に加茂周監督から召集を受け、1995年2月15日のオーストラリア戦でフル代表デビューを果たす。
その後もフランスワールドカップ出場を目指す日本代表としてコンスタントに召集を受けるが、中村が期待された右サイドバックには名良橋晃や中西永輔がいたため、フランスワールドカップ本戦メンバーには選ばれることは叶わなかった。
クラブチームでは1999年シーズン途中に浦和レッズに移籍し、ベテランとしてチームの立て直しを期待されるも浦和はこの年J2に降格。
翌年、中村は京都パープルサンガへ加入。
背番号3をつけ、守備のオールラウンダーとして期待されるも京都もこの年、J2に降格してしまう。
しかし中村はチームに残り、京都の1年でのJ1復帰に貢献する。
京都ではボランチなど守備的MFのポジションもこなした。
2002年には京都で天皇杯を制覇する。
中村はその後も京都でプレーするも怪我の影響で2004年シーズンはリーグ戦4試合の出場に留まり、この年限りで引退をした。
中村忠の引退後と現在
中村は引退後、指導者に転身。
2005年から2011年までは東京ヴェルディのジュニアユースやユースのコーチを務めた。
2012年から2016年まではFC東京のユースやトップチームのコーチを歴任した。
現在は日本代表のU17、U18のコーチに就任している。
ヴェルディの黄金時代にはラモス瑠偉や三浦知良、北澤豪や武田修宏など、派手で攻撃的な選手が多く在籍していた。
そんな中、中村忠のように派手さはないが攻守のバランスに優れ、チームの為に走り続けられる男がいたからこそヴェルディは多くのタイトルを獲得できたのかもしれない。