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山田暢久の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第50回】

1994年から2013年まで浦和レッズ一筋でプレーした山田暢久。

山田はゴールキーパー以外の様々なポジションで起用され、浦和レッズに幾多のタイトルをもたらした。

浦和レッズでの出場試合は501試合を数える。

同一チーム在籍20年を迎えた選手の500試合出場はJリーグ初の快挙だ。

日本代表としてはジーコ監督の元、15試合に出場。

山田は浦和レッズの歴史を語る上で欠かせない存在だ。

山田暢久のプロ入り前


山田は1975年に静岡県藤枝市に生まれた。

藤枝市立稲葉小学校に入学し稲葉サッカースポーツ少年団でサッカーを始める。

藤枝中学校を経て、高校は中山雅史や後に浦和レッズで共にプレーをする元日本代表キャプテンの長谷部誠を輩出した静岡県立藤枝東高等学校へ進学。

藤枝東時代は背番号8を付け、右サイドハーフとして活躍した。

山田は後に藤枝東高校時代を「練習は本当に厳しいものでしたが、伝統の藤色のユニフォームに誇りを持っていたから、がんばれたのだと思います。」と藤枝市のホームページで語っている。

山田は高校卒業後、浦和レッズへ入団する。

山田暢久のプロ入り後

山田は浦和レッズに入団後、ルーキーイヤーの1994年は15試合に出場。

デビュー当時はフォワードで福田正博と2トップを組むこともあった。

1995年以降は主に右サイドバックや右ウイングバックとしてプレーしている。

その他にもトップ下、ボランチ、センターバックなど、ゴールキーパーを除くあらゆるポジションで起用された。

トラップの上手さ、ヘディングの強さ、ディフェンスの上手さは特筆すべきものがあり、どこのポジションもこなせる 山田は浦和レッズで唯一無二の存在となっていく。

2003年にはヤマザキナビスコカップで優勝を果たす。

翌年の2004年にはキャプテンとしてJリーグセカンドステージ優勝に貢献した。

2005年には天皇杯で優勝、2006年には天皇杯の連覇とJリーグ優勝を達成。
2007年にはAFCチャンピオンズリーグでの優勝を経験するなど毎年のようにタイトルを獲得する。

日本代表としては2002年に初招集。

主に右サイドバックとしてジーコ監督に重宝され、2002年から2004年まで15試合に出場するも2006年ドイツワールドカップへの出場は叶わず以降代表に招集されることはなかった。

山田は2013年4月27日の清水エスパルス戦でデビューから20年目を迎えた。

Jリーグで1チームで在籍20年目を迎える史上初の選手となった。

海外でもGKを除くフィールドプレイヤーで1チーム在籍20年を超える選手は、ローマのフランチェスコ・トッティやマンチェスターユナイテッドのライアン・ギグス他数人しか達成していない。

その後も一貫して浦和レッズでプレーを続け、現役晩年は途中出場が多くなるも出場した試合ではチームに落ち着きを与えた。

山田は2013年まで浦和レッズでプレー。

38歳でユニフォームを脱いだ。

2014年には山田の引退試合が埼玉スタジアムで開催され、小野伸二や岡野雅行、福田正博、鈴木啓太、田中マルクス闘莉王、ワシントンポンテなど、山田とともに浦和レッズを支えた多くの選手が出場し、山田暢久を労った。

山田暢久の引退後と現在

山田は引退後の2015年から2017年まで浦和レッズ育成サポートコーチを務めた。

現在は2019年より神奈川県社会人サッカーリーグ1部のイトゥアーノFC横浜の監督を務めている。

また、埼玉県川越市にてサッカーアカデミーを開校。

年齢問わず多くの方へサッカーの魅力を伝えている。

サッカー選手は現役生活が短く、皆ステッアップや出場機会を求めて移籍を繰り返していく。

そんなサッカー界において、20年現役を続け、同一チームで501試合の出場を達成した山田の記録はいかに偉大なものかわかるだろう。

山田暢久が打ち立てた記録は当分破られそうにない。

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