日本代表やジュビロ磐田では職人気質な守備的MFの印象が強い吉田光範。
しかし、20代中盤まではセンターフォワードとして活躍していた。
1990年イタリアワールドカップをかけて戦ったアジア予選での日本代表において、吉田はエースストライカーだった。
吉田は長谷川健太や前田治、黒崎久志と共に激しいポジション争いを演じた。
1993年。ドーハのピッチに吉田は立っていた。
ベテランの守備的MFとして。
吉田光範のプロ入り前
刈谷市立衣浦小学校2年の時に体育の授業で初めてサッカーボールに触れ、小学4年生の時に刈谷サッカースクールに入団した。
刈谷南中学校時代の1976年には刈谷サッカースクールの代表選手としてアメリカに遠征している。
愛知県立刈谷工業高校へ進学しサッカー部で活躍し卒業後は日本サッカーリーグ(JSL)のヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)に入団。
1981年シーズンは10位で2部降格となったが、後の日本代表監督となるハンス・オフトが監督に就任した1982年シーズンには2部で優勝して1部昇格に貢献した。
1983年には天皇杯で優勝し、1987年にはJSLで優勝を経験した。
吉田はその後も一貫してヤマハでプレーした。
吉田光範のプロ入り後
吉田はヤマハがジュビロ磐田としてJリーグに参入した1994年から主力としてプレー。
ジュビロ磐田では守備的MFやリベロとして戦った。
また、吉田は日本リーグ時代からチームを知る数少ないベテランとしてジュビロのキャプテンも経験。
ジュビロ磐田では1994年と1995年の2シーズンプレー。
日本代表としては、22歳だった1985年、神戸で開催されたFCジロンダン・ボルドー(フランス)との試合で日本代表デビューを果たす。
デビュー戦では木村和司、金田喜稔、加藤久などとともにプレーをした。
吉田はサッカー日本代表として3度のFIFAワールドカップ予選に参加(1986 FIFAワールドカップ・メキシコ大会予選、1990 FIFAワールドカップ・イタリア大会予選、1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選)。
1993年にカタール・ドーハで行なわれた最終予選ではチームメイトの中山雅史と共にJリーガー以外でのメンバー入りを果たし、イラク戦(ドーハの悲劇)にもフル出場を果たした。
この活躍により吉田は中山とともに磐田市市民賞を受賞し、地元の英雄となった。
吉田は1995年シーズン終了後にユニフォームを脱いだ。33歳での引退だった。
吉田は日本代表35試合出場、Jリーグ通算58試合出場という記録を残した。
吉田光範の引退後と現在
吉田は引退後、ジュビロ磐田ジュニアユースの監督やユースチームコーチ、トップチームコーチを歴任。
現在はジュビロ磐田を離れ、YOSHIDAサッカースクール代表としてジュニア世代の育成に励んでいる。
ドーハの悲劇が起こるまでのラスト10分間。
オフトは声がかれるほど「キープ・ザ・ボール!」と叫んだ。
しかし当時の日本代表選手には、勝っている試合でボールをキープするという、いわゆる試合の終わらせ方を知っている選手は少なかった。
吉田の不安は的中し、日本代表はラスト10分間で不安定な戦いをしてしまい、ロスタイムにイラクに同点ゴールを許してしまった。
もしあの時吉田が前線にいたら・・・と僕は想像してしまう。
変わった未来があったかもしれないしなかったかもしれない。
しかし吉田は常に正しいポジションでプレーし、いてほしいところに、いてほしい時にいてくれたのは事実だ。