上背は178cmと、FWとしてはさほど大きくないものの、得点感覚に優れ、ヘディングでのゴールが多かった柱谷幸一。
前線で溜めをつくれる選手で、キープ力があるため、柱谷を経由して数々のゴールが生まれた。
Jリーグ開幕時には30歳を越えていたため、晩年は守備的MFなどポジションを下げてプレーした。
日本代表29キャップ、日本リーグ新人王、日本リーグ4度のベストイレブンなど、実弟柱谷哲二に劣らないほど功績は輝かしい。
浦和レッズや柏レイソルで活躍した柱谷幸一に迫る。
柱谷幸一のプロ入り前
幼少期から運動神経が発達していた柱谷は、住んでいたところにサッカーチームが無かった為、ソフトボールに励んでいたが小学5年の時に花園少年団が創設されサッカーを始めた。
中学校は京都市立双ヶ丘中学校に進み、練習環境が良かったとは言えない状況で全国大会ではベスト8進出を果たした。
敗れた対戦相手のチームには、後に日産や日本代表でともにプレーする水沼貴史が在籍していた。
高校は、京都商業高校(現京都学園)へ進学。
1年生よりレギュラーとして活躍し、全国選手権出場を果たした。
1977年には国体で準優勝。
柱谷は教職免許取得を目指してこともあり、サッカーと両立させるべく国士舘大へ進学した。
大学4年時にはチームの全国制覇に貢献した。
国士舘大学在学中から日本代表に選ばれ、ロサンゼルス五輪予選や1986 FIFAワールドカップ・アジア予選にFWとして出場した。
1983年に日産自動車(現横浜FM)に入社。
開幕からレギュラーの座を掴み、第4節マツダ(現広島)戦で初ゴールを挙げて波に乗ると、シーズン7ゴール5アシストの大活躍を見せて、新人王を獲得した。
木村和司や水沼貴史、金田喜稔らと共に活躍し、1980年代末の日産黄金期に欠かせない選手として君臨した。
1987からの5年間は、弟、柱谷哲二ともプレー。
日本サッカーリーグでは140試合に出場、52得点の成績を残した。
柱谷幸一のプロ入り後
柱谷は1992年、Jリーグの開幕前に浦和レッズへ移籍。
開幕戦のガンバ大阪戦では背番号11をつけ、福田正博、フェレイラと3トップを組んだが、試合は1-0で敗れた。
初年度は18試合に出場し2得点を挙げる。
貴重なベテランとして精神的支柱として期待されたが、肉離れを起こして離脱。
柱谷を失ったチームは最下位に沈んだ。
翌1994年も出場は7試合に留まり、シーズン途中に当時JFLの柏レイソルに移籍。
柏レイソルのJリーグへの昇格に貢献した。
柏は中盤でのプレーもしつつ、本来のFWでのポジションでは、ブラジル代表カレカやエジウソンと2トップを組んでプレー。
再びJリーグの舞台に返り咲き、1996年までプレーして引退した。
柱谷幸一の引退後と現在
柱谷は引退後、1999年にS級ライセンスを取得。
2001年からはJ2のモンテディオ山形で、2004年からは京都パープルサンガで指揮を執った。
2005年にはJ2での優勝を果たし、J1に昇格するも成績は低迷し、シーズン途中に解任された。
その後は栃木SCやギラヴァンツ北九州の監督を務め、現在は主に解説者として活躍している。
日本が手中に収めかけたアメリカワールドカップへの道。
柱谷はテレビ中継のゲストとしてスタジオにいた。
イラクに同点ゴールを決められ、ワールドカップ出場を目前にしながらも念願のワールドカップ初出場の切符を失った日本。
柱谷はスタジオでコメントを求められた際に、涙で詰まりながらも言葉を振り絞った。
「胸を張って帰ってきてほしい」
今、日本は当たり前のようにワールドカップに出場を続けている。
しかし長年苦しめられたアジアでの勝利は未だ容易ではない。
アジアの厳しさを忘れてはいけない。