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篠田善之の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第360回】

視野が広く、流れを読む優れた戦術眼を持ち合わせたボランチ篠田善之。

堅い守備でボールを奪うと、中盤の底から持ち前のキープ力や展開力を活かして攻撃を牽引した。

テスト入団でアビスパ福岡に入団後、アビスパ一筋で10年プレー。

Jリーグ通算203試合に出場した篠田は、サポーターやチームメイトからの信頼も厚く、「ミスターアビスパ」と呼ばれた。

篠田善之のJリーグ入り前


篠田は1971年に山梨県甲府市に生まれた。

2人の兄の影響でサッカーを始め、甲府西中進学後、サッカー部で活躍。

高校は、山梨の強豪である機山工業高等学校(現:甲府城西高等学校)へ進学。

1987年、1988年と2大会連続でサッカー選手権大会に出場。

高校卒業後、大学受験をするも失敗。1年間、勉強をしながら地元の甲府サッカークラブ(現 ヴァンフォーレ甲府)でプレーをした。

1年後に中京大学へ進学。大学在学中にJリーグが開幕したため、Jリーガーという明確な目標を持つようになった。
大学時代は全日本大学サッカー選手権大会に出場するも上位進出はならなかった。

中京大学卒業を控え、Jクラブのセレクションを幾つも受けるが不合格となる。
その中でJFLの福岡ブルックス(後のアビスパ福岡)に最後に合格し、テスト生として入団することが決まる。

篠田善之のJリーグ入り後

福岡ブルックスはJリーグ加盟に合わせ「アビスパ福岡」へ改称。篠田が入団した翌年にJリーグに参戦する。

篠田はテスト生ということもあり、前評判は決して高くはなかったが、清水秀彦監督の信頼を勝ち取り、福岡の記念すべきJリーグ開幕戦であるジュビロ磐田戦にボランチとして先発。

その後も中田一三とダブルボランチを組み、マラドーナや永井篤志の後ろでプレーをした。J1年目はリーグ戦14試合に出場した。

篠田は翌年以降もボランチとしてチームを支えるが、アビスパは1997年は17位、1998年は18位と2年連続シーズン最下位と沈んだ。

1999年からは背番号6を背負う。三浦泰年野田知石丸清隆らとコンビを組み、攻守のつなぎ役として活躍。

第14節浦和戦では前半38分に相手DFからのクリアをハーフライン手前で胸トラップをして、ゴールから45メートルほど離れたところからロングシュートを放ち、右隅に突き刺さした。

このゴールは篠田のJリーグ初ゴールであり、その後は点の取り合いになるが延長後半に山下芳輝が決め3-2で勝利している。

2001年、アビスパは年間成績15位となりJ2へ降格するも篠田は残留。1年でのJ1復帰を目指したが2002年は8位に終わった。

2004年、プロ10年目のシーズンをリーグ戦17試合出場1得点で終え、この年限りで現役を引退した。

篠田善之の引退後と現在

篠田は現役引退後、アビスパに残りU-18コーチやトップチームコーチを務め、2008年には監督のピエール・リトバルスキーの解任に伴い、シーズン途中から監督を務めた。

その後もFC東京や清水エスパルスでコーチを務め、いずれも成績不振による監督解任によりシーズン途中から監督を務めている。

2023年からはヴァンフォーレ甲府の監督となっている。

篠田善之はいわゆるサッカーエリートではない。

学生時代は年代別代表に選出されたこともなく、アビスパ福岡にもテスト生の末になんとか入団できた。
いつクビを切られてもおかしくない状況の中、篠田は毎日必死に練習した。大好きなサッカーを続けるために。

そんな篠田は拾ってくれたチームでレギュラーとなり、キャプテンを務め、ミスターアビスパと呼ばれるまでになった。

諦めなければ道はつながる。

自分の人生でそれを体現してきた男が、2022年に旋風を巻き起こしたヴァンフォーレ甲府でどんなサッカーを見せてくれるのか。楽しみでならない。

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