当時の名古屋グランパスエイトの監督であるベンゲル氏は言った。
「彼が若い頃もっとシュート練習をしていたらピクシーになれた」と。
望月重良はその高いテクニックとユーティリティーで守備的なMFからFWまでどのポジションにおいてもレベルの高いプレーを披露した。
望月重良を回想するときに二つのことが頭をよぎる。
アジアカップ決勝での殊勲のゴール。
そして特発性大腿骨頭壊死症(とくはつせいだいたいこっとうえししょう)という国の特定疾患(難病)に侵されてしまったことだ。
神出鬼没のアタッカー、望月重良に迫る。
望月重良のプロ入り前
幼い頃から自然とサッカーがある環境で育った望月は庵原小学校サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、清水FC(小学生の選抜チーム)でプレーをする。
庵原中学校に進んだ後も東海選抜に抜擢されるなど、幼い頃からその才能を発揮していた。
高校はサッカーの名門である清水商業高校へ進学。
高校1年生から主力として活躍。二つ上の藤田俊哉や一つ上の名波浩を支えるダイナモとして1年生唯一のレギュラーとして中盤でプレーをした。
2年生に進級すると中盤の底(ボランチ)としてプレー。
当時の清水商業は「高校史上最強チーム」と言われ、DFには薩川了洋(3年)、大岩剛(3年)、MFには名波浩(3年)、FWには山田隆裕(3年)、控えには平野孝(1年)など多くのスター選手を抱えており、インターハイと全日本ユースの2冠を達成した。
3年時には背番号10を背負い、チームを牽引。川口能活(1年)も加入し、ともにプレーをした。
高校進学後は筑波大学へ進学。
大学在学中の1995年夏季ユニバーシアード・サッカー競技の日本代表に選出され、優勝に貢献した。
望月重良のプロ入り後
望月は大学卒業後の1996年に名古屋グランパスエイトに入団。
1年目から26試合に出場し5得点を挙げるなど活躍した。
1997年には日本代表に選出。
惜しくもフランスワールドカップの出場メンバーには選出されなかったが、中盤の底からウイングまでこなす望月は岡田監督からの信頼も厚く、定期的に召集を受けた。
1999年には日本代表としてコパアメリカに出場。
2000年にはアジアカップに出場し、決勝戦のサウジアラビア戦では中村俊輔のフリーキックにファーサイドから走り込んできた望月が合わせてネットを揺らした。
この望月のゴールが決勝点となり、1-0で日本はアジアカップを制覇した。
日本代表としては通算14試合に出場し1得点を記録した。
クラブチームでは2000年に名古屋を離れ、京都パープルサンガへ移籍。
以降、2001年はヴィッセル神戸、2003年はジェフ市原、ベガルタ仙台、そして2005年からはJ2の横浜FCでプレーするなど5つのチームを渡り歩いた。
2004年に国の特定疾患に指定されている特発性大腿骨頭壊死症と医師に診断されてしまう。
この病気は原因がはっきりしておらず、骨組織が壊死し関節が変形・破壊する病気であり激痛を伴い、関節の動く範囲が狭くなったり、跛行(はこう、足を引きずって歩く事)を生じたりする病気である。
医師からは即刻サッカーを辞めるように言われたが、望月はそれを固辞し国立スポーツ科学センター(JISS)に泊まり込み、リハビリ生活を送る。
望月は後年、このリハビリ生活についてこう語っている。
「ボールには触れず、毎日同じことの繰り返しで本当にきつかった。ただ、筋肉をつけないと始まらないし、それをクリアしないとサッカーはできない。やめようと思えば、やめることはできたんです。ただ、それ以上にもう一度サッカーをやりたい気持ちが強かったんです。」
懸命なリハビリ生活の末、望月は横浜FCとの契約を交わし、ピッチに復帰する。
難病発症からの3年間、リハビリを続けながらプレーを続け、望月は2006年で引退を決意する。
望月重良の引退後と現在
望月は引退後に2008年2月に自ら全額を出資して創設したSC相模原の代表に就任した。
元Jリーガーがまったくの0からクラブを作るという試みはサッカー界を超えてビジネス業界からも注目を集めた。
2011年には相模原の監督も務めた。
当時神奈川県リーグ3部から出発したSC相模原は現在J3リーグまで昇格している。
望月はアジアに通用するクラブをつくっていきたいと語っている。
難病に侵されながらも、Jリーグのピッチの戻ってくるという奇跡を成し遂げた望月なら、きっとやってくれるに違いない。