たとえ2人、3人に囲まれてもどのように相手を翻弄するのか。
ピッチの上の増田忠俊はいつもワクワクさせてくれた。
増田がボールを持っただけで歓声が沸く。
まっすぐ突破するのか。
中央に切り込むのか。
一旦戻して裏に飛び出すのか・・・。
増田はいつも予想を簡単に裏切ってくれた。
変幻自在なドリブラー増田忠俊。
今回は日本代表にまで上り詰めた増田忠俊に迫る。
増田忠俊のプロ入り前
子供の頃からサッカーは身近にあった。
増田は菅原西小学校でサッカーを始め、菅原中学校に進む。
高校は三浦泰年や三浦知良など多くのJリーガーを輩出した静岡学園に進学。
高校3年間はチームプレイより個人技を徹底的に練習した。
増田は高校3年間で全国大会への出場はおろか、県選抜にすら選出されなかった。
増田は高校を卒業後に日本サッカーリーグ数チームの練習にテスト生として参加した。
日産(現横浜Fマリノス)、全日空 (横浜フリューゲルス)、住友金属(現鹿島アントラーズ)。
その中で増田が練習に手応えを感じたのはジーコのいる住友金属だった。
増田忠俊のプロ入り後
増田が加入した住友金属は鹿島アントラーズに名前を変え、Jリーグ初年度からチームは優勝争いに加わる活躍を見せる。
増田も加入3年目から出場の機会を得る。
3年目のシーズンは26試合に出場して6得点を挙げた。
増田はその活躍が認められ、アトランタオリンピック予選を戦うU23日本代表に選出される。
小倉隆史や松田直樹、前園真聖など錚々たるメンバーが顔を揃えるU23代表だったが、増田はこの時の事を後年、インタビューでこう語っている。
「オリンピックの価値、権威というものが全く分からなかったんですよ。そこに呼ばれるのなら、鹿島でレギュラーを獲りたい。そう思っていました」
当時から鹿島アントラーズはリーグ屈指の強豪。
鹿島で活躍することはU23代表を飛び越え、フル代表選出を意味していた。
U23代表を同年代の選手と争うより、鹿島で現役ブラジル代表のレオナルドやジョルジーニョと練習をした方が身になると思ったのだ。
それにようやく掴みかけたレギュラーの座も失ってしまうかもしれない。
増田は当時のU23日本代表監督であった西野朗へ直談判して、代表を離脱する旨を告げる。
代表を離れた増田をマスコミ各社は監督との確執だと伝え、鹿島では上層部に大目玉を食らった。
しかし、増田は腐る事なく筋力トレーニングに励み、フィジカルを強化し、ドリブラーとしての価値を上げていく。
司令塔であるビスマルクからのボールを受け取り、変幻自在なドリブルで中に切り込んでいく。
FWに出すという選択肢もあるし、そのまま自分で行くという手もある。
増田は当時最強の攻撃陣といわれた鹿島の中でその存在を確かなものにしていった。
そして1998年、ついに増田はフル代表に選出される。
代表デビュー戦となった香港選抜戦ではゴールも記録。
フランフワールドカップでは増田のドリブルが脚光を浴びるものかと思われたが、最終メンバーの23名には残ることが出来なかった。
増田はその年の8月に右脛の複雑骨折により1年間の離脱を経験する。
復帰後はスーパーサブ的な扱いで後半から出場することが多かった増田は出場機会を求めて2000年にFC東京へ移籍したが、東京では満足のいく出場時間を得られなかった。
増田はその後、ジェフ市原、柏レイソル、大分とチームを転々とした。
しかし年を重ねる毎に持病の腰痛が悪化する。
思うようなプレーができなくなってきた増田は2006年に32歳でユニフォームを脱ぐ決意をした。
増田忠俊の引退後と現在
増田は引退後、大分トリニータのスクールコーチに就任。
現在はサッカースクールMSSの代表として100人を超えるサッカー少年に指導をしている。
いずれ自分を超える選手が出てきてほしいと増田は語る。
増田の技術を継承する子供たちが日の丸をつけて、ピッチの上をドリブルで駆け上がっていく。
そんな光景を見れたらオールドファンは本当に幸せだと思う。