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玉乃淳の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第154回】

アトレティコ・マドリードのユースではフェルナンド・トーレスと2トップを組んでいた玉乃淳。

現在ではバルセロナの下部組織でプレーしていた久保建英やレアル・マドリードの下部組織でプレーをする中井卓大など、世界の名門クラブのユースでプレーする選手は少しずつ出てきたが、1999年にスペインのアトレティコ・マドリードへ渡った玉乃淳はその先駆者であるといえるだろう。

柔らかなボールタッチと創造性溢れるプレーで玉乃淳はその将来を嘱望された。

しかしスペインでプロになる事が出来ず帰国。

Jリーグへ活躍の場を移すも、かつて天才と呼ばれた玉乃淳はJリーグで苦戦し、毎年のように移籍を繰り返した。

未来の日本代表入りを期待された男は僅か25歳で現役を引退する事になる。

玉乃淳のプロ入り前


玉乃淳は1984年に東京都新宿区に生まれた。

小学校1年生のときにあざみ野FCでサッカーを始める。

小学校5年の時に読売日本SCジュニア(現東京Vジュニア)の入団テストに合格。

その後ヴェルディジュニアユースに進み、1999年のナイキプレミア杯という15歳以下のクラブ世界選手権に出場。

玉乃淳はチームをベスト8に導く活躍を見せた。

そのナイキプレミア杯で、それまで誰にもテクニックで負けた事がなかった玉乃淳は、バルセロナのジュニアユースの同い年のある選手に衝撃を受ける。

色白で小柄ながらも、圧倒的なテクニックで存在感を示していたその少年は若き日のイニエスタだった。

カンプノウの地でヴェルディジュニアユースはイニエスタ擁するバルセロナジュニアユースに敗れている。

それでも玉乃淳を擁するヴェルディジュニアユースはレアル・マドリードジュニアユースを倒す活躍を見せる。

この活躍が認められ、玉乃淳はスペインの古豪アトレティコ・マドリードやエスパニョールからオファーを受ける。

その後玉乃淳はスペインに渡り、自身の目で施設を見て回りアトレティコ・マドリードユースに入団する。

アトレティコには同期にフェルナンド・トーレスがいた。

練習や試合ではトーレスと2トップを組み、同じ高校へ通った。

順風満帆に見えたスペイン時代も少しずつ陰りが見え始める。

玉乃は17歳の時に身長が170センチで止まり、それまでなんなくドリブルでかわしてきた相手選手に長い足で止められるようになった。

フィジカルを鍛えようと食事から体質改善に励むも、思ったように筋肉がつかない。

みるみる体格が出来上がっていく周りの仲間達の変化と比較してフィジカル的に劣る自身の体格に玉乃は苦しんだという。

そして契約の問題も浮上した。

2002年、アトレティコのトップチームの2部Aリーグ降格に伴い、玉乃の所属するBチームは2部Aリーグへの昇格が見送られ2部Bリーグに残留。

2部Bリーグは外国籍の選手が出場できないルールだった。

出場機会を求めた玉乃は2002年2月に古巣東京ヴェルディに復帰する事となる。

玉乃淳のプロ入り後

2002年9月18日のFC東京戦でで途中起用されJリーグデビューを果たす。

10月12日の清水エスパルス戦でJリーグ初ゴールを決めて勝利に貢献するも、このシーズンはリーグ戦5試合に出場し1得点に終わった。

スペイン仕込みの確かなテクニックとスピード感のあるドリブルで将来のヴェルディを背負う選手として期待されるも、なかなかレギュラーに定着出来ずにベンチを温める日が続いた。

入団2年目は3試合の出場、3年目は2試合の出場に留まる。

4年目はリーグ戦16試合に出場するも無得点に終わり、このシーズンヴェルディはJ2に降格。

2006年シーズンは徳島ヴォルティスへレンタル移籍する事になった。

徳島では背番号32をつけ、司令塔を任された玉乃はレベルの高いキック精度でチームの攻撃パターンを増やし、チームメイトだけでなく、監督の信頼を勝ち取った。

リーグ戦34試合に出場し2得点を挙げる活躍を見せ、復活の兆しを見せるも徳島は最下位に沈み玉乃は戦力外通告を受ける。

2007年は横浜FC、2008年は再度、徳島ヴォルティスでプレー。

2009年は再起をかけてザスパ草津へ移籍するもこのシーズンはリーグ戦9試合の出場に留まる。

そして玉乃はこのシーズン限りで現役を引退。

玉乃淳、25歳での若すぎる引退だった。

玉乃淳の引退後と現在

玉乃淳は引退後、カナダへ語学留学をした後に2012年よりサッカー解説者として主にJ SPORTSでJリーグの解説を担当。

史上最年少の25歳でのサッカー解説者として注目された。

現在は自身が運営する株式会社JAPAN TRENDY にてプロ選手のセカンドキャリアなどをマネジメントする業務を手がけている。

早熟の天才といわれた玉乃淳のプロ生活は決して順風満帆ではなかった。

世界が認める程のテクニックはJリーグでも申し分なかったが、最後までフィジカルに泣かされた印象だ。

一瞬で相手を抜き去る技術はあっても90分間走り切る体力や筋力が玉乃にはなかったのかもしれない。

かつてアトレティコ・ユースのチームメイトでもありライバルでもあったフェルナンド・トーレスがサガン鳥栖へ移籍してきた時、真っ先に玉乃淳の事を思い返した方も多いだろう。

同じ高校に通い、プロ選手を夢見た2人はそれぞれ違う国でプロになり、違う道を進み長い時を経て日本で再会を果たした。

フェルナンド・トーレスを日本で観れるという事は感慨深い事だが、そのワールドクラスの男とツートップを組んでいた日本人がいたという事もまた感慨深い。

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