その男は左足に絶対の自信を持っていた。
身長172センチ、68キロという小柄な体格ながら、巧に相手のマークを外すと、どんな状況からでも必ずといっていいほど、左足にこだわり、そして見事にゴールネットを揺らした。
左足の魔術師・ラモン・ディアス。
1979年ワールドユース得点王、1991年アルゼンチンリーグ得点王。所属したリーベルプレート、インテル・ミラノ、フィオレンティーナ、モナコでも、ディアスは輝かしい成績を収めた。
アルゼンチンから来た33歳の最強の助っ人外国人は、リーグ戦32試合で28得点を挙げ、見事にJリーグ初代得点王に輝いた。
ラモン・ディアスのJリーグ入り前
ディアスは1959年にアルゼンチンのラ・リオハ州に生まれた。
アルゼンチンの名門リーヴェル・プレートの下部組織でサッカーを学んだディアスは、1978年シーズンにトップデビューを飾る。
1979年にはU20アルゼンチン代表に選出され、日本で開催されたワールドユースでは、ディエゴ・マラドーナらと共に活躍し得点王に輝く。同年フル代表にも選出される。
1979-1980年シーズンからは、早くもリーヴェル・プレートのエースストライカーとして活躍し、リーグ戦43試合で23得点を挙げ、リーグ優勝に貢献した。1980-1981年シーズンも22得点を挙げている。
1982年のワールドカップ・スペイン大会にもアルゼンチン代表として出場し、グループリーグのブラジル戦でゴールを決めるも、チームは2次リーグで敗退している。
1982-1983年シーズンに、イタリア・セリエAのSSCナポリへ移籍。
ディアスにとって初めての海外移籍となったが、リーグ戦25試合で僅か3ゴールに終わり、1年でナポリを退団。
翌シーズンには、セリエAのUSアヴェッリーノ1912に移籍。3年目のシーズンにはリーグ戦27試合で10得点を記録した。 1986-1987年シーズンにはセリエAのフィオレンティーナに移籍。
ディアス加入1年目のフィオレンティーナはリーグ10位に沈むも、ディアスは10得点を記録し、2年連続でセリエAで2桁得点を記録した。
1988-1989年シーズンには、セリエAのインテル・ミラノに移籍。 インテルでは、同じく左足でのシュートを得意としたイタリア代表アルド・セレーナと2トップを組み、活躍。セレーナは22得点を挙げ、得点王に輝き、ディアスは多くの得点をアシストし、自身も12得点を挙げ、優勝に貢献した。
しかしディアスは僅か1シーズンでインテルを退団し、フランスリーグのASモナコに移籍。 ディアスは加入1年目から、エースストライカーとして、アーセン・ベンゲル監督から絶大な信頼を勝ち取ると、リーグ戦15ゴールを挙げ、リーグ3位の原動力となると、2年目のシーズンも9得点を挙げ、リーグ2位、そして国内カップ戦優勝に貢献した。
1991-1992年シーズンには、アルゼンチンに帰国し、リーヴェル・プレートに復帰。 リーヴェル・プレートでは、後に横浜マリノスでともにプレーするメディナベージョとのコンビでゴールを量産し、前期シーズンにリーグ優勝を果たし、自らもシーズンの得点王に輝く活躍を見せた。
1993年、Jリーグ開幕を前に、得点源となる外国人選手を探していた横浜マリノスから白羽の矢が立つ。
サッカーの神様と呼ばれたジーコや、ワールドカップ得点王のリネカー、ブンデスリーガで406試合に出場したリトバルスキーなどのワールドクラスの選手がJリーグに参戦し、大きな盛り上がりを見せたが、ディアス自身は、日本での知名度は決して高くなかった。
ラモン・ディアスのJリーグ入り後
1993年5月15日。超満員の国立競技場で行われたヴェルディ川崎対横浜マリノス戦は、オランダ人のマイヤーの劇的なミドルシュートで幕を開けた。
劣勢に立たされたマリノスだったが、エバートンのゴールで1-1に追いつくと、迎えた59分、水沼貴史のシュートのこぼれ球に鋭く反応し、逆転ゴールを決めて見せた。これが決勝点となり、マリノスは宿敵・ヴェルデイから歴史的な一勝を挙げた。
ディアスはその後も先発フル出場を続けるも、開幕ゴールから7試合連続ノーゴールを記録。点の取れないストライカーに次第に苛立ちの矛先が向くが、第13節ジェフ市原戦でハットトリックを記録し3-1の勝利に貢献すると、続く第14節浦和レッズ戦でもハットトリックを決め5-1の勝利に貢献。ディアス自身も4試合連続ゴールとなり、マリノスの4連勝に貢献した。
1stステージは鹿島アントラーズが優勝し、マリノスは3位で終わったがディアスが得点を決めた試合は全試合勝利を収めている。
1993年2ndステージも、開幕戦のヴェルディ川崎戦で2ゴールを挙げると、第6節サンフレッチェ広島戦から第13節ガンバ大阪戦まで6試合連続ゴールを記録。この6試合でディアスは10得点を挙げている。
第17節横浜フリューゲルス戦で、自身3度目となるハットトリックを決め、終わってみれば、28得点でディアスはJリーグ初代得点王とベストイレブンに選出されている。
1994年は、リーベル時代の同僚であるメディナベージョが加入し強力な2トップを形成。自らがゴールを挙げるだけでなく、メディナベージョやビスコンティと強力な攻撃陣を牽引し、アシストを量産した。1stステージ第9節名古屋グランパスエイト戦では、4度目となるハットトリックを決め、この年も23得点で得点ランキング4位となる活躍を見せた。
1995年シーズンもマリノスに残留し、変わらぬ活躍が期待されたが、ホルヘ・ソラリ監督と戦術を巡って衝突。シーズン途中に退団し、そのまま現役を引退することとなった。
ラモン・ディアスの引退後と現在
ディアスは引退後、指導者に転身。
リーベル・プレートの監督を経て2014年にはパラグアイ代表監督に就任。2015年にはコパ・アメリカでパラグアイ代表を準決勝に導くも、しかしコパ・アメリカ・センテナリオ2016で、パラグアイがグループリーグ予選敗退をしたことを理由に辞任している。
2019年にはパラグアイのクラブチーム・リベルタスアスンシオンの監督に就任している。
ディアスはJリーグで52ゴールを挙げているが、そのほとんどが左足から生まれたものだ。
右サイドからのクロスも、身体をねじるようにして強引に左足で合わせ、右サイドでボールを持ってもフェイントを入れて左足で蹴る。左で来ると分かっていても止められないのがディアスの凄さであったと思う。
ラモン・ディアスの左足には確かに魔法がかかっていた。