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飯尾和也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【281回】

コーチングに優れ、的確な指示を出すことの出来るセンターバック飯尾和也。

カバーリング能力にも長けておりスペースに抜け出してくる相手への対応も速い。

プロ入り後、U20日本代表に選出されるもののプロ3年目には戦力外通告を受けて地域リーグでのプレーを余儀なくされる。しかしその後Jリーグに復帰しサガン鳥栖ではキャプテンを務めた。

現役晩年に所属した松本山雅ではDF陣を統率する守備の要として活躍しJリーグ昇格に貢献。精神的支柱としてチーム内外で大きな影響力を発揮した。

飯尾和也のJリーグ入り前


飯尾和也は1980年に東京都練馬区で生まれる。

5歳の時にサッカーを始め、小学生になると光和小学校光和イレブンに入り本格的にサッカーを始める。関東選抜、東京都少年選抜サッカー大会で中村憲剛とプレー。東京選抜では大会優秀選手に選出された。

中学進学後、読売SC(現東京ヴェルディ)のジュニアユースに所属。

鷺宮高等学校へ進学後、読売SCユースに所属。全日本ユースでベスト8、Jユースカップで優勝を経験。U-16からU-19まで順当に日本代表に選出される。代表では小野伸二、高原直泰、稲本潤一、中田浩二小笠原満男、遠藤保仁らとプレーした。

1999年、飯尾は高校卒業後にトップチームへ昇格する。

飯尾和也のJリーグ入り後

ヴェルディ川崎では出場機会には恵まれずリーグ戦1試合の出場に留まる。

2000年に出場機会を求め、ベガルタ仙台へベガルタ仙台へレンタル移籍。
仙台ではレギュラーとしてチームを支え、加入2年目にはJ1昇格に貢献した。しかし3年目は怪我の影響もありリーグ戦出場数0、初めての戦力外通告を受ける。

その後、Jリーグクラブからのオファーはなく九州リーグの沖縄かりゆしFC でプレー。翌年は東海1部リーグの静岡FCでプレーを経験した。

2005年にテスト入団でサガン鳥栖と契約。

鳥栖ではレギュラーのセンターバックとして活躍。2005年8月2日第24節京都パープルサンガ戦ではJリーグ初ゴールをマークした。
2007年序盤は怪我の為に出遅れるも第8節からスタメン出場を続ける。岸野靖之監督からの信頼は厚くその後もレギュラーとして守備陣を統率した。2008年はキャリアハイとなる4ゴールをマーク。

2009年にキャプテンに就任。リーグ戦48試合に出場。

2010年には選手会長を務めるものの出場機会がリーグ戦15試合に留まりこの年をもって鳥栖を退団。

2011年にサガン鳥栖で監督を務めた岸野靖之率いる横浜FCへ移籍。

しかし横浜では出場機会に恵まれず、一時は引退を考えていたが松本山雅FCからの強い要望もあり同年8月に完全移籍。

松本山雅ではチームの主力としてプレーし、J2昇格に貢献。

2012年は飯田真輝とのコンビでDFラインを支える。リーグ戦41試合に出場し3ゴールを決める。

しかし2013年から出場機会が減少。

2014年、J1昇格を果たしたチームを見届ける形で現役を引退した。

飯尾和也の引退後と現在

飯尾は現役引退後、長野県松本市にパーソナルメンタルサロン「コラソン」を開業している。

飯尾自身、16年間の選手生活を支えたのはメンタルであると語り、メンタルコントロールの重要性を伝えている。

サッカーボールを使ったエクササイズや子供向け、大人向けのメンタルサロンをはじめ、各地での講演など精力的に活動している。更にはファスティング(断食)のサポートも行っている。

Jリーガーとなり、U世代日本代表に選出されるもプロ3年目には戦力外通告を受け、地域リーグからやり直すという挫折を味わった。そこから飯尾は這い上がり、Jリーグで11年間もプレーする息の長い選手となった。鳥栖時代はキャプテン、選手会長を歴任し多くのチームメイト、サポーターに慕われた。華やかな舞台を多く味わった分、常人では考えられない辛い事もまた多く経験した。

いまやメンタルコントロールの重要性はスポーツ界だけに限った話ではない。多くの企業もメンタルヘルス対策に取り組んでいる。ストレスや心の病は、仕事だけではなく今後の人生に密接に関わってくる重要な問題だ。

失敗・落選・降格・戦力外・・・。常に結果が求められ評価が下されるシビアな世界で生きてきたからこそ、一番重要なのはメンタルであると飯尾は言い切れるのだと思う。

メンタルの充実。人生を楽しむヒントはそこにある気がする。

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