近藤祐介の特徴は、なんといってもそのパワーだろう。
鍛え抜かれた肉体を駆使した力強いドリブル突破は、フルスロットルで発進すれば容易に止めることは出来ない。
そして左右どちらからでも放つ事の出来るシュートはJリーグでも屈指の威力であった。
2006年にはヴィッセル神戸でキャリアハイとなるシーズン10得点を記録。翌年の4月にはオシム監督に選出され日本代表候補のトレーニングキャンプに参加した。
現役後期はFWだけでなくサイドハーフとしても活躍。近藤祐介は力強いドリブル突破を生かしたウイングとしてプレーの幅を広げた。
近藤祐介のJリーグ入り前
江戸川小学校1年の頃にサッカーを始め、キンダFC、江戸川ボウズFCでサッカーを学ぶ。小学5年時には中学生に交じって試合に出ていた。
瑞江第三中学校に進み市川KIFCカネヅカに所属。中学時代は県のトレセンに選出された。
中学卒業後、サッカーの強豪校である習志野高校へ進学。センターバックやボランチも経験する。あまり遠くに蹴ることができないチームメイトが多いなかで、両足でロングキックを遠くに飛ばすことができ、速く走ることができるためバックスでの起用も多かったという。
高校2年の時に監督の転任に併せて流経大柏高校へと転校。2年時にナショナルトレセンに選出。FWにコンバートされ3年時には千葉県選抜の背番号10を背負い、力強いシュートを武器に高知国体優勝に貢献した。
2003年、柏レイソルからも入団の打診を受けていたが、先んじてオファーを受けていたFC東京へ加入する。
近藤祐介のJリーグ入り後
2003年8月30日2ndステージ第3節横浜Fマリノス戦でJリーグデビューを果たすと、第6節ベガルタ仙台戦でJリーグ初ゴールを決めた。
アマラオ、ケリー、戸田光洋、阿部吉朗とFWのポジションを争い、加入初年度はリーグ戦6試合に出場し1得点の記録を残した。
この頃、FIFAワールドユース選手権に臨むU-20日本代表の有力候補の一人であったが大会直前の負傷により選外となった。
サテライトリーグでは2003年は10試合で7点、2004年は7試合で2点、2005年は6試合で7点とハイペースで得点を重ねるものの、トップチームでは出場機会は限られ3年間でリーグ戦26試合の出場、2得点に留まった。
2006年、近藤は出場機会を求め、J2ヴィッセル神戸にレンタル移籍。
神戸では主力選手として持ち前の強引な攻撃の仕掛けに加え、前線からの守備でも貢献した。リーグ戦42試合に出場し10得点を記録。J1昇格が掛かった大一番のJ1・J2入れ替え戦の第2戦では、アウェーゴールを決めチームをJ1昇格へ導く活躍を見せた。
2008年、レンタル期間を終えFC東京へ復帰。
しかし右足指骨折や左膝半月板損傷のため手術など負傷が重なり、リーグ戦6試合の出場に留まる。翌年もカボレ、平山相太、赤嶺真吾、鈴木達也と激しいポジション争いを演じるがリーグ戦12試合に出場し1得点に留まった。
2010年よりJ2のコンサドーレ札幌に移籍。
2011年に左サイドハーフ(MF)にポジションを変えリーグ戦全38試合に出場。力強いドリブル突破からの強烈なシュートを武器にリーグ戦7ゴールをマーク。J1昇格に大きく貢献した。
しかし2012年、コンサドーレはリーグ戦で僅か4勝しか挙げられず1年でJ2に降格。近藤は人件費削減の煽りを受けその年限りで退団となった。
2013年からは松田浩監督から誘われる形でJ2栃木SCに完全移籍。
栃木でもFWだけでなく左SHとしてもプレーし、菊岡拓朗との息のあったコンビネーションでチームを牽引。2014年シーズンはチーム最多出場となるリーグ戦40試合に出場を果たした。
2015年、J2ギラヴァンツ北九州へ移籍するが出場機会に恵まれず同年7月にJ3AC長野パルセイロへ完全移籍。
2016年SC相模原へレンタル移籍となり、移籍期間満了後に退団。
2017年3月に東京都リーグ2部の南葛SCへ加入。1シーズンプレーし現役を引退した。
近藤祐介の引退後と現在
近藤祐介は引退後、『Ole! FC東京U-23』(レインボータウンFM)の解説やスクールでの指導を行なっている。
まるでラグビーの選手のような鍛え抜かれた上半身と太ももの太さが印象的だった近藤祐介。
見た目の通りパワーを存分に活かしたダイナミックなプレーは見応えがあった。
近藤祐介のドリブルはマークを振り切るというよりも、吹っ飛ばすと言った方がしっくりくるほど力強かった。
重戦車の如く突き進んでいくそのドリブルは、相手チームにとっても脅威であったに違いない。