高度な戦術眼と卓越した技術を併せ持ち、インテリジェンス溢れるプレーが特徴のMF長谷部茂利。
大学時代にはU23日本代表に選出され、バルセロナオリンピックアジア最終予選に出場。
所属したヴェルディでは主にセントラルMFとして、ヴィッセル神戸では戦術理解度を評価されDFも経験した。
長谷部茂利の強いキャプテンシーは誰しもが認めるところで、ヴィッセル神戸やジェフ千葉ではキャプテンを務め、精神面でもチームを支えた。
長谷部茂利のプロ入り前
長谷部は1971年に神奈川県横浜市栄区に4人兄弟の次男として生まれた。
横浜市立本郷小学校へ入学、FC本郷に入団。1学年後輩に有馬賢二がいた。
長谷部兄弟は近所でも有名なサッカーが上手な兄弟だったが特に茂利はサッカーがうまかったという。
本郷中学校卒業後、桐陰学園へ入学。同学年に戸倉健一郎、1学年下に林健太郎、福永泰、2学年下に栗原圭介がいた。
3年時、長谷部はチームを主将として背番号10を背負い、タレントが揃うチームをまとめ関東大会優勝、全日本ユースベスト4という成果をあげた。
第68回全国高等学校サッカー選手権大会に初出場ながら優勝候補として出場。1回戦の山口戦で前半32分までに3ゴールを叩き込み、ハットトリックを達成。
チームも5-1で勝利を収めると、2回戦の岐阜工業戦も1ゴール1アシストの活躍で5-0の快勝に貢献。
さらに、3回戦も伝習館を4-0で退け、3試合で14得点1失点という驚異的な数字を残してのベスト8進出した。その後前橋商業に準々決勝で破れることになるが、この試合で見せた長谷部のFKはこの大会のベストゴールのひとつとなった。
李国秀監督のアドバイスもあり、高校卒業後の進路は中央大学を選択。サッカー部に所属する。
1期上に沢田謙太郎、同期に岡島清延、1期下に奥原崇、渡辺毅などがいた。
1992年、第41回全日本大学サッカー選手権大会に出場し優勝を果たすなど大学屈指の司令塔として活躍した。その後はバルセロナオリンピック出場を目指すU23日本代表に選出。澤登正朗や名波浩、永井秀樹らとアジア最終予選を戦った。
1994年、大学屈指の司令塔としてヴェルディ川崎に入団する。
長谷部茂利のプロ入り後
長谷部はルーキーイヤーから20試合に出場。ラモス瑠偉、ビスマルク、北澤豪などそうそうたるメンバーがひしめき合う中でも一定の出場機会を得る。
しかし1996年、1997年は出場機会に恵まれず、1997年途中にJFLの川崎フロンターレに移籍し1シーズンプレー。
1998年ヴィッセル神戸に移籍。
神戸では背番号10を背負い、攻撃の起点となる。フローロ監督によりDFへのコンバートも経験するなどユーティリティな一面も見せた。
1999年2ndステージと2000年1stステージでは、J1でのクラブ最高位となる7位躍進に貢献。加入から退団までの3シーズンに渡り活躍を見せた。
2001年ジェフユナイテッド市原に移籍。
残留争いの常連だったジェフであったが、長谷部をはじめ新選手らと共に2001年1stステージ3位という大躍進の原動力となった。
2002年もリーグ戦17試合に出場を果たすも、2003年は怪我の影響もありリーグ戦の出場機会はなくこのシーズン限りで現役を引退した。
長谷部茂利の引退後と現在
長谷部茂利は引退後、古巣である神戸で指導者としてユース年代を指導し、2011年からはトップチームのコーチに就任。
その後ジェフ千葉の監督を経て、2018年より水戸ホーリーホックの監督を務めた。
2020年からはアビスパ福岡の監督に就任している。
長谷部茂利は、基本的には指示を出さずに試合中の判断は選手に任せるタイプの監督である。
普段の練習でも選手たちの判断を大切にしており、失敗したとしても、とがめることは少ないという。
ミスが起きた場合に答えを教える監督ではなく、こういうやり方もあると言ってヒントを出し選手自身に答えを出させる。そうする事で考える力と共に判断力や責任感が生まれるのだと感じる。
指導者が作るチームではなくプレーする選手がチームを作る。長谷部茂利のそういった指導スタイルが現在のアビスパ福岡を強くさせている要因だと私は思う。