日本のダイナモといえばこの人だろう。
ヴェルディの、そして日本代表としての中盤を縦横無尽に走り続けた北澤豪。
Jリーグでは主に中盤のスペースを生み出す運動量豊富な2列目の選手としてのイメージが強いが、JSL時代は得点王を獲得した事もあるなど得点能力も高い。
Jリーグではヴェルディ一筋でプレーし黄金期から低迷期まで経験したミスターヴェルディ。
日本代表としても9年間に渡り58ギャップを記録。
ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、そしてフランスワールドカップ直前のまさかの代表落選など日本サッカーの歴史と共に北澤豪は走り続けた。
北澤豪のJリーグ入り前
北澤は1968年に東京都町田市に生まれた。
町田第三小学校1年生の時に父親の勧めもあり、サッカーを始める。
程なくして地元のクラブチームである町田SSS(スリーエス)に所属。6年時には町田市選抜チームのキャプテンを務めた。
中学時代は読売サッカークラブ・ジュニアユースに所属した。読売は当時日本で唯一のプロクラブであり、トップチームのラモス瑠偉、都並敏史、松木安太郎ら日本代表選手の練習を真近で見て刺激を受けた。
読売ジュニアユースでは1学年下の菊原志郎らと共にプレーし、2年時は西ドイツ遠征も経験した。
親の都合で都合で町田市から葛飾区へ引っ越す。修徳高校進学後も読売ユースでプレーしたかったが掛け持ちが認められずユースを断念し部活動に専念する。
修徳高校には部員が100人以上おり、中学時代に読売でハイレベルなサッカーに触れていた北澤は既にプロサッカー選手の夢を抱いており、高校部活特有の上下関係や青春の熱さに馴染めずしばらくは朝練習にも参加しない日々を送った。
しかしそんな北澤にも対等に接してくれた1人の先輩との出会いがきっかけで北澤は変わっていく。高校2年時には帝京高校を破り、修徳高校初の全国高校サッカー選手権へ出場。
高校3年時には高校総体ベスト8に貢献。国体では東京選抜に選出され、帝京の礒貝洋光らと共に優勝を経験した。
高校卒業後、読売に売り込むも入団は認められず本田技研(ホンダFC)に入社する。
午前中にバイクの塗装の仕事をこなし、午後に練習に取り組むという日々を送った。
シンプルなサッカーを好むホンダFCと読売仕込みのトリッキーなプレーを得意とする自身の間のギャップに悩み、入団後2年間は公式戦のベンチ入りもままならなかった。
しかし3年目に欧州や南米への留学を経験し、プレーの幅が広がると宮本征勝監督によりレギュラーに抜擢されると、北澤はリーグ戦全試合に出場する。
翌年のシーズンは得点力が開花、読売の戸塚哲也、日産(現横浜Fマリノス)のレナトと得点王のタイトルを分け合い、ベストイレブンにも選出された。
この活躍が認められ日本代表に選出されると、1991年4月4日のスパルタク・モスクワとの親善試合で代表デビューを飾り、同年6月のキリンカップでは2得点を決める等、日本の初優勝に貢献した。
翌年、本田技研がJリーグ参加を見送った為、北澤は移籍を決意。
得点王を獲得し日本代表となった北澤は様々なオファーがある中、憧れであった読売でプロになる選択をする。
しかし読売は競争率が激しく新入りの北澤にはパスも回ってこないような状況だった。
だが北澤はこの年行われたJSLカップで活躍。決勝戦の本田技研戦で途中出場から決勝ゴールを決め、チームの信頼を勝ち取った。
そのシーズンのリーグ優勝とベストイレブンにも選出され、ヴェルディの中心人物として1993年のJリーグ開幕を迎える。
北澤豪のJリーグ入り後
Jリーグ開幕後は背番号8を着用し、中盤でプレー。
ラモス瑠偉やビスマルク、武田修宏、三浦知良などJリーグ屈指の攻撃陣の中で、北澤はトップ下からポジションを一つ下げ、豊富な運動量とスピードを生かしてスペースを作る事に専念した。
北澤豪の前線への飛び出しや尽きる事のないスタミナはヴェルディの大きな武器となり、ヴェルディの黄金期を代表する選手となった。
トレードマークの長髪も相まって全国的人気を博した北澤はその後もJリーグを代表する選手となっていく。
1993年に行われたアメリカワールドカップ予選ではボランチの森保一の台頭によりサブに降格するが、韓国戦で先発出場を果たし攻守に奮闘。望みを繋いだ10月28日のイラク戦ではベンチで「ドーハの悲劇」を経験した。
その後も日本代表の中心選手として、ファルカン、加茂周、岡田武史により招集を受け続ける。
1998年フランスワールドカップ出場を決めた1997年11月16日のイラン戦でも先発出場。日本のワールドカップ初出場に貢献した。
しかし、翌年のワールドカップ直前に三浦知良、市川大祐と共に代表から落選してしまう。
それまで日本代表の中心人物としてプレーしてきた北澤豪の落選は日本中の注目を集めた。
その後、ヴェルディは親会社の読売が経営から撤退。高年俸だった三浦知良や柱谷哲二らが去る中、北澤豪はヴェルディに残りチームを支えた。
1999年からはキャプテンに就任。苦境に立たされるヴェルディの精神的支柱となった。
北澤は2002年まで現役を続け、ヴェルディでリーグ戦265試合に出場、41得点を挙げた。
2002年シーズン終了後、岡田武史監督率いる横浜Fマリノスからオファーが届くも、膝の状態が良くなくオファーを断り正式に引退を表明した。
北澤豪の引退後と現在
北澤豪は引退後、サッカー解説者を務める傍ら2003年4月からはJFAアンバサダーとして、若年層へのサッカーの普及活動を続けた。
その他にも日本フットサルリーグ(Fリーグ)のCOO補佐や日本障がい者サッカー連盟会長など活躍は多岐にわたる。
北澤豪が新たに力を入れている障がい者サッカーは2020年東京パラリンピックの開催もあり今注目を集めている。
一言で障がい者サッカーと言っても、知的障がい者サッカー、聴覚障がい者サッカー、視覚障がい者サッカー、電動車椅子サッカー、精神障がい者サッカー、脳性まひ者サッカー、アンプティサッカーなど多くの競技が存在し、競技する人数も違えばルールも大きく異なる。
ブラインドサッカーでは、ゴールキーパーは目の見える人が務めるルールで行うなど健常者との共存が図られている。近年、障がい者スポーツとしては初となるチケット有料化を取り入れ、ラジオ実況を導入するなどその環境は大きく変化している。
初めて観戦した時、私は試合に釘付けになった。
それと同時にそれまで浅い知識と偏見だけで捉えていた障がい者スポーツのイメージが音を立てて崩れていくのを感じた。
足に吸い付くようなドリブル、まるで見えているかのようなコースを狙った鋭いシュート、目を覆いたくなるような激しいボディコンタクト。
ご覧になった事がない方は一度見てほしい。
そこにはあなたの想像する世界を超える世界があるはずだ。