ジェフやサンフレッチェで活躍した楽山孝志。
左右どちらのゾーンにおいても切れ味鋭いドリブルと精度の高いクロスを武器にアタッカーとして貴重な存在だった。
2010年にはロシアリーグのFCヒムキでプレー。
2011年からは中国スーパーリーグの深圳(シンセン)へ移籍し、中国スーパーリーグでプレーする初めての日本人選手となった。
中国の深圳ではキャプテンを務めるなど3年間に渡ってレギュラーとして活躍した。
現在では中国にて数百人規模のサッカースクールを運営し、海外の子供達へ日本サッカーの技術を継承している楽山孝志に迫る。
楽山孝志のプロ入り前
楽山は1980年に富山県魚津市に生まれた。
吉島小学校の時にサッカーを始め、魚津市立東部中学校進学後はFCひがしでプレーをした。
中学校卒業後は地元の富山を離れ、サッカーの名門である静岡市立清水商業高校へ進学。
楽山の1年先輩に小野伸二、平川忠亮(元浦和レッズ)がいた。
高校3年時に全国高校サッカー選手権に出場。
順当に勝ち進むも、3回戦で林丈統率いる滝川第二高校に2-4で敗れた。
高校卒業後、中京大学へ進学。
大学2年の時の全日本大学選手権では2年先輩の山岸範宏(元浦和レッズ、モンテディオ山形など)、山崎光太郎(元名古屋グランパス、ヴァンフォーレ甲府など)とともにプレー。
楽山は背番号11を背負い、2回戦の学芸大学戦で山崎光太郎の得点をアシストするなど活躍し、同大学の初優勝に貢献した。
そして大学卒業後の2003年、楽山はJリーグ1部のジェフ市原へ加入する。同期には後に日本代表となる巻誠一郎や工藤浩平がいた。
楽山孝志のプロ入り後
ジェフに加入した楽山は2003年7月12日J1第12節対ベガルタ仙台戦で1年目ながら初出場を果たすもこのシーズンはこの試合のみの出場となる。
ジェフ市原には村井慎二、山岸智、林丈統など楽山の得意とするサイドアタッカーのポジションに豊富な人材がいた為、出場機会は限られた。
イビチャ・オシム監督の元、楽山は練習から好パフォーマンスを見せたが2004年は8試合、2005年は1試合のみの出場に留まった。
サテライトリーグや練習試合では直接フリーキックを何度も決めるなど復調をアピールし、2006年、2007年は出場機会が増えた。
2008年、当時J2のサンフレッチェ広島へ移籍。
サンフレッチェのMF陣は高萩洋次郎、柏木陽介、青山敏弘などの日本代表クラスの選手に加え、2009年にはサイドのスペシャリストであるミキッチが加入するなどタレントが豊富であった。
楽山はペドロヴィッチ監督の元で出場機会を得るが、その多くは途中出場でのものとなった。
それでも出場した試合では攻撃にアクセントを加えることの出来るアタッカーとしての能力を発揮。2009年はリーグ戦14試合に出場するなど一定の評価を得ていたものの、このシーズン限りでサンフレッチェ広島を退団することになる。
なかなか次の所属先が見つからなかった中、2010年7月にロシア・ファーストディビジョン(2部リーグ)・FCヒムキと契約。
本田圭佑、巻誠一郎に次ぐ3人目の日本人ロシアリーガーとなった。
ヒムキでは背番号88をつけリーグ戦12試合に出場した。
翌年にはフィリップ・トルシエ率いる中国超級の深圳紅鑽に、巻誠一郎と共に契約。
同年6月、青島中能戦にて中国超級における日本人選手初ゴールおよび自身キャリアにおけるリーグ戦初ゴールを決めた。
その年、チームは2部リーグに降格してしまうも、楽山はその後もレギュラーとしてプレーし、キャプテンを務めるなど活躍。
2013年にはリーグ戦28試合に出場し3得点を挙げ、最終節にはベスト11に選出されるなど活躍するもこの年限りで引退を表明した。
楽山孝志の引退後と現在
楽山は引退後、中国にてサッカースクー「TCF楽山サッカー塾」を開校。
開校時はわずか10人ほどの生徒しかおらず、そのほとんどが日本人だったが、現在では300人以上となり、その大半が中国人となっているそうだ。
日本の子供達はボールと連動してチームワークを大切にするのに対して、中国の子供達はほとんどが一人っ子で家庭でも注目の的となる環境で育てられているかるか、個人の技量は高くても自己中心的なプレーが目立つという。
楽山はまずそこから指摘し、チームワークの大切さを教え込み、個人のポテンシャルを発揮しつつもチームが連動するサッカーを教えている。
人口の多さに関わらず、中国スーパーリーグではラフプレーが目立ったり、飛び抜けた選手があまり出てこないのはそういうところに問題があるのかと個人的にも勉強になった。
いつの日か、楽山孝志の教え子が中国を代表するプレーヤーとなり世界に羽ばたく事を期待したい。