柔らかなボールタッチと繊細なテクニックを持ったストライカー、阿部祐大朗。
早くから注目され、同年代の中で別格の存在となり和製クライファートと呼ばれた程の逸材。
U17日本代表の絶対的エースとして世界選手権に出場。高校選手権でも3試合で5得点を挙げ桐蔭学園初の全国ベスト4の原動力となった。
鳴り物入りで横浜Fマリノスへ入団。誰もが阿部祐大朗の才能を評価し、将来の日本代表として大きな期待を寄せた。
しかし10年に1人とまで言われた天才・阿部祐大朗の前にJリーグの壁は大きく立ちはだかる事になる。
阿部祐大朗のプロ入り前
阿部は1984年に東京都町田市に生まれた。
5歳の時にサッカーを始め、6歳で町田JFCに加入。
阿部が小学校3年生の時にJリーグが開幕。この頃から既に夢はプロサッカー選手だった。
小学校時代から選抜チームに選出されるなど早くから頭角を現し、桐蔭中学校進学後は1年生からレギュラーを獲得。2年生、3年生の時には連続して全国大会に出場し2年連続で準優勝を経験した。
桐蔭中学校卒業後、桐蔭学園へ進学。
高校1年時からレギュラーとなり3年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場。
柔らかなファーストタッチからセンスを感じるボールコントロールを兼ね備えて阿部祐大朗は超高校級ストライカーと称された阿部は16歳でU17日本代表に選出される。
AFCU17選手権では日本のエースとして出場。大会得点王に輝いた。
翌年の世界選手権では1次リーグで敗退するものの初戦のアメリカ戦では2得点を挙げる活躍を見せた。
3年時の全国高校選手権では同学年の水嶋ヒロらとチームを牽引。3回戦までに5得点を挙げ桐蔭学園初の全国ベスト4入りに貢献した。
また高校3年時に強化指定選手として横浜Fマリノスへ加入。2002年7月13日1stステージ第8節でJリーグデビューを飾るなど高校生ながらこの年リーグ戦3試合に出場した。
当時の横浜マリノスのラザロニ監督は「技術、戦術の理解度、向上心、ハートの強さ、どれを取っても阿部はすでにトップレベルに達している。特に足元の柔らかさは日本人にはないものを持っている。あとは経験さえ積めば世界に誇る選手になれる」と阿部を賞賛した。
阿部はその後高校生活ながらU19日本代表、U20日本代表にも選出。
高校卒業後、10年に1人の天才と称された阿部祐大朗は順風満帆過ぎる程の経歴を持って横浜Fマリノスへ正式に入団する。
阿部祐大朗のプロ入り後
鳴り物入りで横浜Fマリノスに加入した阿部祐大朗だったが、当時のマリノスは岡田武史監督の元で優勝候補筆頭に挙げられる程の豪華メンバーが揃っていた。
FWには久保竜彦、マルキーニョス、坂田大輔、安永聡太郎がいた。
高いテクニックで高校時代は圧倒的な存在感を示してきた阿部祐大朗だがここでプロの洗礼を浴びる。
腹筋が数回しか出来ないフィジカルの弱さを露呈し本来の実力を発揮出来ないままルーキーイヤーはリーグ戦6試合の出場で無得点に終わった。
2年目も韓国代表の安貞桓が加入し更にポジション争いは激化。阿部はこの年1試合にも出場出来ないまま横浜Fマリノスの年間優勝2連覇を見届け、マリノスから去る事になる。
初めて味わったサッカーでの挫折。
阿部は後年、この2年間が本当に苦しかったと語っている。
その後、阿部はJ2のモンテディオ山形へ加入。
山形ではマリノスとの環境の落差に戸惑いながらも出場の機会を得る。
第14節でようやくJリーグ初ゴールをマークするとこの年はリーグ戦27試合に出場し5得点を挙げた。
しかし翌年はリーグ戦8試合の出場に留まり無得点に終わるとこの年を持って山形から戦力外通告を受ける。
阿部は合同トライアウトに参加し石川県の北信越地域1部リーグのフェルボローザ石川へ入団。
派遣社員として墓石掃除の仕事をしながらプレーをするも、チームがスポンサー離脱により経営破綻に陥る。阿部は給料未払いのままチームを離れる事態になった。
同年にJ2の徳島ヴォルティスへ加入し2年間プレー。
2009年からはJFLのガイナーレ鳥取へ加入した。2010年にはリーグ戦24試合に出場し8得点を挙げガイナーレのJFL優勝とJリーグ昇格に貢献した。
2011年は再びJ2リーグでのプレーとなったがガイナーレは20チーム中19位に沈み、阿部もリーグ戦13試合に出場し1得点と活躍出来ずこの年限りでガイナーレを退団。
そして退団と同時に27歳の若さで現役引退を表明した。
阿部祐大朗の引退後と現在
阿部は現役引退後、ウェディングプランナーに転身しサラリーマンとなる。
その後は大手外資系金融会社に転職するなど、ビジネスパーソンとして活躍している。
阿部祐大朗ほど輝かしい経歴を持ってプロ入りをしたとしても当然活躍が確約されるわけではない。
引退後に阿部はサッカーで味わったプロの壁を乗り越える前に、しっかりとその壁と向き合う事が出来なかったと語っている。
マリノス時代、日本のトップに君臨した中村俊輔が誰よりも遅く残りフリーキックの練習をしているのに対して阿部は練習を終えると遊びに夢中になったという。
自らその壁から目を背け、阿部とサッカーとの距離はみるみる開いていった。プロで失敗した1番の原因は、プロになってから「サッカーに夢中になれなかった」ことだと語る。
これほど高い潜在能力がプロで開花出来なかった事はフットボールファンとして残念に思うが、阿部祐大朗のインタビュー記事を読んでいると本当に真っ直ぐな人という印象を受ける。
阿部のように自らの失敗や後悔を隠さずさらけ出せる人間がこの世にどれほどいるだろう。
自らと向き合う事の大切さ。
そして自分に正直に生きること。
これはサッカーに限らず生きていく上で非常に重要な事だ。
今、阿部祐大朗は天国も地獄も味わったサッカーでの経験を糧にセカンドキャリアを真っ直ぐに走り続けている。