Jリーグ通算89ゴール。
長谷川祥之が打ち立てた鹿島アントラーズ通算ゴール数は未だに破られていない。(2位は柳沢敦の80ゴール)
長谷川はその驚異的な跳躍力で数々のゴールを奪った。
同年代の黒崎比差支(現黒崎久志)や真中靖夫、有力外国人のマジーニョやアルシンド、若手の柳沢敦や鈴木隆行、平瀬智行などライバルが多い鹿島アントラーズFW陣の中で、長谷川は空中戦の強さというストロングポイントを前面に押し出し、結果を出し続けた。
また、ゴールだけではなく時には最終ラインまで戻ってDFをする献身さも長谷川の魅力のひとつだ。
アントラーズの歴史に残るゴールゲッター、長谷川祥之に迫る。
長谷川祥之のプロ入り前
小学3年から宇治市の菟道サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、宇治高等学校へ進学。
高校時代は全国高校サッカー選手権には出場できず、全国的には無名の存在だった。
高校卒業後、関西2部リーグに所属していた大阪経済大に進学。
レギュラーとして活躍し、大学2年時には関西2部リーグの得点王を獲得。
長谷川の活躍によってチームも関西1部に返り咲いた。
また大学3年、4年でもコンスタントに得点を重ね、3年連続で得点王になる活躍をみせた。
大学を卒業後は日本サッカーリーグ1部の本田技研(現ホンダFC)へ加入。
DF勝矢寿延やMF北澤豪らと共にチームの中心的な存在となった。
JSL杯やコニカ杯では得点を量産してチームを決勝に導き、天皇杯でもベスト4に進出するなど活躍を見せた。
しかし本田技研はJリーグに加入しない方針だったため、黒崎比差支や本田泰人とともに1992年に鹿島アントラーズへ移籍した。
長谷川祥之のプロ入り後
長谷川はJリーグ初年度から活躍し、盟友である黒崎比差支やアルシンドとの熾烈なレギュラー争いを繰り広げ、惜しくも二桁得点には届かなかったものの、30試合に出場して9得点の活躍をみせた。
怪我を恐れずに身体を投げ出して得点を狙いにいくスタンスは時には流血をすることもあったが包帯を巻いて出場を続けた。
1994年には43試合に出場し21得点を挙げ、日本人得点ランキング2位となる。(1位は武田修宏の23得点)
1995年には日本代表に初召集を受け、ダイナスティカップで黒崎比差支とともに鹿島ツインタワーでのツートップを形成。
翌年の1996年のキリンカップでは三浦知良とツートップを組んだ。
得点はなかったものの、ユーゴスラビア、メキシコを撃破してキリンカップ優勝の一員となった。
日本代表では1995年から1996年まで呼ばれ、通算6試合出場、無得点の記録を残した。
その後、鹿島ではマジーニョや柳沢の加入もあってポジションを下げてプレー。
それでも1998シーズンには14得点を挙げ、鹿島アントラーズ2度目の年間王者に貢献した。
やがて平瀬智行、鈴木隆行、本山雅志という相次ぐアタッカーの加入でチームの世代交代が進み途中出場が多くなり、途中出場が多くなる。
しかしそんな中でも抜群の勝負強さで少ないチャンスをものにし、得点を重ね続けた。
2000シーズンに唯一挙げた得点はJリーグ通算6500号となるメモリアルゴールとなった。
それでも加齢や慢性的な膝の怪我には勝てず、2003シーズン限りで現役を引退。
12年に渡る鹿島アントラーズでのプロ生活に終止符を打った。
長谷川祥之の引退後と現在
長谷川は引退後の2004年から鹿島ジュニアユースのコーチに就任。
2007年からは鹿島ユースのコーチを経て、2012年より鹿島アントラーズのスカウトを担当している。
長谷川がゴールを決めれば鹿島は負けないという不敗神話は、1996年から引退する2003年まで34試合も続いた。
現在、鹿島アントラーズのエースとして活躍する鈴木優磨は打点の高いヘッドが持ち味のストライカーだが、鈴木は得意のヘディングについて「ユースのときに長谷川さんから教わった」と語っている。
長谷川のヘディングの技術はもちろん、ストライカーとしての魂も若い世代へ継承され続けていく。