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長谷川健太の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第18回】

オレンジ色のユニフォームをきて、右サイドを駆け上がる。

右45度の角度から放たれる豪快なキャノンシュートは何度もゴールネットを揺らした。

現役時代は日本を代表するストライカーだった。

今や日本を代表する指揮官となっている長谷川健太。

今回は長谷川健太に迫っていく。

長谷川健太のプロ入り前


長谷川健太は1965年、静岡県静岡市に生まれた。

静岡市は言わずと知れたサッカーの町。

長谷川も例に漏れることなく幼いころからサッカーとともに成長していく。

漫画ちびまるこちゃんの作者であるさくらももこのクラスメイトとしても知られ、長谷川は「ケンタ」という名前で漫画にも登場している。

少年時代は地元の少年サッカーチーム・清水FCに所属して、小学6年生の時には全日本少年サッカー大会で優勝。

清水第一中学校を経て、サッカーの名門である清水東高等学校に進学。

後に清水エスパルスでともに活躍する堀池巧や大榎克己とともに清水三羽烏とよばれ、

全国を舞台に活躍した。

その後、筑波大学を経て1988年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)へ入部。

長谷川は1988年にブラジルへの2ケ月の短期留学を経験する。

日産は、リーグ戦、天皇杯、JSL杯を2年連続で完全制覇。

長谷川はその立役者として活躍した。

そして長谷川は、1991年にJリーグ設立に際して創設された地元の清水エスパルスに入団する。

この時、長谷川健太は26歳。

サッカー選手として最も脂ののった時期だった。

長谷川健太のプロ入り後

長谷川はJリーグ開幕の1993年に36試合に出場して10得点を記録。

元ブラジル代表のトニーニョ向島建と3トップを形成。

主に右ウイングとして活躍した。

長谷川はこの年、1994年ワールドカップ米国大会出場を目指す日本代表にも選出。

アジア最終予選で活躍した。

ドーハの悲劇が起きたアルアリ・スタジアムでのイラク戦では、三浦知良、中山雅史と3トップを形成。

三浦知良の先制ゴールをアシストするなど躍動したが、ロスタイムにイラクに同点に追いつかれ、あと少しというところでワールドカップ初出場を逃してしまう。

いわゆるドーハの悲劇だ。

長谷川は後年、自身にとってドーハは「経験」であると述べている。

長谷川は続く1994年、Jリーグ44試合に出場して9得点を挙げる。

この長谷川の活躍で清水エスパルスは優勝は逃すものの、1993年はリーグ戦3位、1994年は4位と上位に進出する。

その後、長谷川は1999年まで清水エスパルスに在籍。

晩年は先発ではなく、後半途中から出場する機会が増えていったが、清水の攻撃陣を支える貴重なベテランとしてチームを鼓舞し続ける。

清水は1999年にはJリーグセカンドステージで優勝。

長谷川は清水の優勝を見届け、この年を最後に現役を引退した。

長谷川健太の引退後と現在

長谷川は引退後、NHKでのサッカーの解説者やサッカーの指導者として浜松大学サッカー部監督を務めた。

そして2005年からは清水エスパルスの監督に就任。

低迷が続いていたエスパルスの復活を支えた。

2013年からはガンバ大阪の監督になり、ガンバ大阪を9年ぶりのリーグ優勝に導き、長谷川自身も最優秀監督賞を受賞した。

また、この年ガンバ大阪は、ナビスコカップと天皇杯も制し、長谷川健太はJリーグの日本人監督としては初の国内三冠を達成したことになる。

2018年からはFC東京の監督に就任。

2021年12月9日には、名古屋グランパスの監督に就任すると発表された。

長谷川の手腕に期待がかかる。

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