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向島建の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第11回】

通称『清水の牛若丸』。

Jリーグ開幕当初に清水エスパルスのFWとして活躍した向島建は身長161センチ。

今でこそ、身長の低いJリーガーは珍しくない。

例えば同じエスパルスのFW金子翔太は身長162センチ。

日本代表の背番号10を背負う中島翔哉も身長164センチと小柄だ。

しかし開幕当初のJリーグで身長の低い選手は稀有な存在だった。

向島建はエスパルスのアタッカーとして、持ち前のスピードとテクニックで

大柄な相手DFと対等に渡り合った。

今回はそんな向島建に迫ってみたい。

向島建のプロ入り前


向島は1966年に静岡県に生まれた。

サッカーの強豪である静岡学園高等学校に進学。後に清水エスパルスで共に戦う三浦泰年とは同級生。

全国大会とは無縁だったが、サッカーの強い国士館大学へ進学。プロ選手を目指した。

国士館大学を卒業後は東芝(現コンサドーレ札幌)に加入。

東芝では、同じくFWで161㎝と身長の低い鈴木政紀(元ジュビロ磐田)とツートップを組んだ。東芝での活躍が認められ。1992年にJリーグ開幕と共に設立された清水エスパルスに加入する。

向島建のプロ入り後

清水エスパルスに加入した向島はハンデとみられた小さな体を生かして、相手DFをドリブルで翻弄したり、スピードで一気に置き去りにするプレーで上位に定着する清水エスパルスのレギュラーとして活躍した。

加入1年目はリーグ戦30試合に出場して8得点。

当時のエスパルスのFWは日本代表の長谷川健太や元ブラジル代表のエドゥー、1994年にはガンバ大阪から永島昭浩が加入し、試合に出場するのも容易ではなかった。それでも向島は確かな足元の技術と体の特徴を生かしたプレーで唯一無二の存在となっていた。

エスパルスには5年間在籍し、リーグ戦83試合出場、15得点を挙げた。

1997年にJFLに所属していた川崎フロンターレに移籍。

移籍初年度は二桁得点を記録するなど活躍した。川崎にも5年間在籍し、チームのJ2昇格、そしてJ1昇格に貢献。

2001年に引退をした。

その後、足元の技術と巧みなドリブルを生かし、フットサルに転向。

最初はあくまでも楽しみのひとつとしてフットサルに取り組んでいた向島だが、関係者の熱心な誘いにより、フットサル日本代表候補として合宿に参加する。

その時のことを向島は後年このように語っている。

「4ヶ月も満たない短い期間ではあったが日本代表選手たちと過ごしたことで、彼らが本当にフットサルに懸けフットサルを愛していることがよくわかった。目指しているものがあって、フットサルを何よりも楽しんでいた。彼らからも私に積極的に声をかけてきてはJリーグの話題やプロ選手の自己管理の話題、戦術的なことなど話は尽きなかった。プロではないとはいえ代表選手として意識の高さが感じられ、いい関係が築けた。そんな彼らから「フットサル」を学んだことは、サッカーをプレーしてきた私にとって大きな財産になった」

現在ではポピュラーなスポーツとしてメジャーな存在になったフットサル。

しかし、当時はまだまだマイナーなスポーツで、サッカーとフットサルの間に明確な線が引いてあったように思う。

その中で、元Jリーガーとしてフットサルに本気で関わり、フットサルの発展とプロサッカーとの共存関係を築いた向島の功績は大きい。

向島建の引退後と現在

向島建は現役時代にプレーした川崎フロンターレでスカウトに転身。

全国各地を視察のために忙しく飛び回る毎日だ。

現在日本代表でも活躍する大島僚太や小林悠も向島がスカウトした選手だ。

向島は語る。

「選手としてパーソナリティがあり、オフ・ザ・ピッチでも一人の社会人として、立派に成長できる魅力ある選手を獲得したい。」

向島は若い世代にサッカーの技術だけではなく、人間として大きく成長してほしいと望んでいる。

ピッチは戦場だ。

本気で戦うからこそ、納得のいかない判定や、相手選手の激しい削りに怒りを覚えたり、味方のミスに苛立ったりすることもあるだろう。

しかし向島は、どんなときにも自分をコントロールしなければいけないと話す。

高校生や大学生の若いプレーヤーには、マナーも意識せず見ていてかっこ悪く恥ずかしい選手にだけはなってほしくないと願っている。

いつかのエスパルスの試合のシーンを思い出す。

向島が相手DFをドリブルでかわそうとしたときに、悪質なタックルを受け、ホイッスルが鳴った。向島は相手選手に詰め寄るエスパルスの選手たちをなだめ、少しでも早くプレーを再開しようとしていた。

向島は知っていたのだ。

自分をコントロールすることの大切さと、勝利を掴むために何が大切かということを。

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