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遠藤彰弘の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第70回】

1996年。アトランタオリンピック。

キャプテンの前園真聖、司令塔の中田英寿、GK川口能活、中盤のダイナモ伊東輝悦、エース城彰二ら精鋭揃いの若き日本チームの中で10番を託されたのは遠藤彰弘だった。

ブラジル戦では右サイドでプレーし、ロベルトカルロスとマッチアップ。

見事にロベルトカルロスを封じ込み、マイアミの奇跡を演じた。

本職のボランチ以外にも、サイドやトップ下でもその才能を発揮し、豊富な運動量と確かな戦術眼で攻撃を組み立てることが出来る遠藤彰弘に迫る

遠藤彰弘のプロ入り前


遠藤は1975年に鹿児島県桜島町(現鹿児島市)に生まれた。

兄である遠藤拓哉の影響を受け小学校3年生からサッカーを始める。

長男拓哉、三男保仁とともに「遠藤三兄弟」として有名になる。

地元の桜島中学校を卒業後、サッカーの名門である鹿児島実業高校へ進学。

高校3年次には第72回全国高校サッカー選手権大会に鹿児島県代表として出場。

同じチームには共にアトランタオリンピックを戦うFW城彰二がいた。

ベスト4まで勝ち進むも、準決勝で当時最強といわれた清水商業と対戦。PK戦の末、惜しくも敗れた。

清水商業にはGK川口能活、DF田中誠、MF佐藤由紀彦、FW安永聡太郎がいた。

遠藤は活躍が認められ、大会優秀選手に選出。

高校卒業後の1994年、遠藤は横浜マリノスへ入団する。

遠藤彰弘のプロ入り後

遠藤は入団1年目は出場機会がなかったものの、2年目の1995年から主に右サイドハーフとして出場の機会を掴みリーグ戦19試合に出場。マリノスの年間優勝に貢献した。

1996年はアトランタオリンピック日本代表に選出。

初戦のブラジル戦では右サイドハーフを担当。
ボランチの伊東輝悦やトップ下の中田英寿と連携し、ブラジルの攻撃を押さえ込んだ。

続くハンガリー戦、ナイジェリア戦には出場はなかった。

1996年シーズンはアキレス腱の怪我の影響もありリーグ戦出場は2試合に留まる。

しかし1997年に復帰を果たし、1998年に弟の遠藤保仁が横浜フリューゲルスに入り、9月15日の横浜ダービーでプロ入り後初の兄弟対決が実現した。

尚、この試合は2-0で遠藤彰弘擁する横浜マリノスが勝利している。

その後、遠藤は右サイドのみならずボランチで上野良治とコンビを組んでマリノスの中盤を支える活躍を見せ、2000年のマリノスのステージ優勝に貢献。

2003年に岡田監督が就任後も開幕の磐田戦でゴールを挙げるなど活躍しマリノスの両ステージ制覇。

2004年には中村俊輔の移籍で空いた背番号10を背負い、遠藤は多くのポジションをこなし、Jリーグ2連覇に貢献した。

しかし2005年には故障に加え、補強選手や若手の台頭もあって出場機会が激減。

7月にヴィッセル神戸に完全移籍したが出場機会は多くなく、2008年に契約満了で退団後、5月13日に引退を発表。

14年間のプロ生活にピリオドを打った。

遠藤彰弘の引退後と現在

遠藤は引退後、一般社団法人Jリーグ選手OB会の理事を務めながら、指導者として国内外で活躍。

弟の遠藤保仁とサッカースクール遠藤塾を展開。

遠藤塾は大阪、鹿児島、金沢で展開され遠藤はコーチとして指導にあたっている。

遠藤塾では3つの基礎”止める・蹴る・考えて走る”を軸に、プロになる為に本当に必要な技術を徹底指導している。

遠藤塾から世界を舞台に戦う人材が出る日が待ち遠しい。

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