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近藤岳登の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第252回】

ヴィッセル神戸や水戸ホーリーホックでプレーした右サイドバック近藤岳登。

FWからDFにコンバートされただけに精力的なオーバーラップからの攻撃参加が持ち味。その攻撃的なプレースタイルは「和製マイコン」と称された程である。

明るい性格で知られ、ムードメーカーとしてサポーターから高い人気を誇った近藤岳登だが、26歳でプロ入りという遅咲きであり、プロ入り後も膝十字靭帯損傷や半月板損傷という怪我に泣かされながらも36歳まで現役を続けた苦労人でもある。

昨今は元Jリーガーとしてピン芸人の祭典であるR-1グランプリに出場するなどマルチな才能を発揮している近藤岳登に迫る。

近藤岳登のJリーグ入り前


近藤岳登は1981年、愛知県豊川市に生まれた。

豊川市立桜木小学校へ入学後、4年生の時にサッカー部の顧問だった担任の先生の誘いでサッカーを始めた。

中学卒業後、愛知産業大学三河高等学校へ入学。2年連続して国体選抜に選ばれるなど活躍した。

その後大阪体育大学へ進学するも1ヵ月で中退、サッカーから離れる日々を送る。サーフショップで働きながら夏はサーフィン、冬はスノーボードと遊びに夢中な時期が続いたが、そんな生活に物足りなさを感じるようになり、愛知県社会人リーグの東海理化SCへ入団し再びサッカーを始める。

しかし、ゼロからサッカーをやり直そうと決意し東海理化SCを退団。2004年びわこ成蹊スポーツ大学に入学。2005年、2006年には関西学生選抜に選ばれチームに貢献した。

そして2007年、ヴィッセル神戸からオファーを受け入団。近藤岳登は26歳の遅咲きルーキーとして注目された。

近藤岳登はびわこ成蹊スポーツ大学から初のJリーガー誕生となった。

近藤岳登のJリーグ入り後

入団時は身体能力の高いFWであったが、前十字じん帯損傷により1年目は出場機会を得られなかった。
怪我から復帰後、監督の指示でサイドバックへ転向。2008年8月9日のジュビロ磐田戦でJリーグ初出場を果たす。2010年7月25日の大宮アルディージャ戦でJリーグ初ゴールを記録した。

2011年終盤には石櫃洋祐から右サイドバックのレギュラーを奪い、自己最多となる19試合に出場。

2012年、初めてJ開幕戦でスタメン出場を飾りゴールも決めたが、その後奥井諒にポジションを奪われ出番が激減。6シーズン在籍したヴィッセル神戸をこの年をもって退団する。

2013年、J2の水戸ホーリーホックに完全移籍。

背番号2を背負い、開幕戦のザスパ草津戦に先発出場。その後は石神幸征や細川淳矢らと激しいポジション争いを演じたがこの年はリーグ戦14試合の出場に留まり1シーズン限りで水戸を退団。

2014年に関西1部リーグのFC大阪に移籍。

移籍後、膝の半月板を損傷しその過程で外傷性軟骨欠損症が発覚。培養軟骨細胞移植術・右高位脛骨骨切り術、自家腸骨移植を行い約2年に渡る治療の末、復帰を目指したが叶わず、2017年シーズンをもって契約満了。

2018年1月に現役を退いた。

近藤岳登の引退後と現在

近藤岳登は引退後、吉本興業に所属しタレントに転身。

元Jリーガーである近藤岳登が2018年にピン芸人の祭典であるR-1グランプリで準決勝に進出した事で話題になった。

その他にもTVやイベントなどでそのマルチな才能を発揮している。

元Jリーガーがタレントになるケースは、そのほとんどがJリーグで実績があり日本代表として活躍した知名度の高い選手であり近藤岳登のような知名度の高くない選手のケースは稀である。事実、テレビで活躍する近藤岳登を見てから元サッカー選手であると知った人の方が多いと思う。

そしてR-1グランプリで初出場ながら準決勝に進出。これは元プロサッカー選手として初の快挙である。

テレビ東京のFOOT×BRAINに出演した際に、お笑いの世界で天下を取りたいと近藤岳登は熱く語った。一度はサッカーから離れながらも、Jリーガーという夢を26歳という年齢で実現した近藤の事だ。きっとまた何かをやってくれるに違いない。

今後も新たな世界に挑戦していく近藤岳登を見ていきたい。

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