1993年。
U-17世界選手権で初のベスト8に入ったU-17日本代表。
日本代表にはそうそうたるメンバーが揃っていた。
中田英寿、財前宣之、宮本恒靖。
その中で船越優蔵はチームのエースストライカーだった。
身長194㎝。
どこと戦っても船越優蔵はマークされた。
しかしそのマークをはねのけてゴールを決める強さと高さが船越優蔵にはあった。
船越優蔵のプロ入り前
U-17の1993年世界選手権はちょうどJリーグが開幕した年に日本で開催された。
当時、国見高校の監督を務めていた小嶺忠敏氏がU-17日本代表の監督も兼任していた。
チームのエースは中田英寿でもなく、財前宣之でもなく、船越優蔵だった。
FWに船越がいて、正確なキックが持ち味の財前がゴール前にあげる。
船越が競ったボールを中田が押し込む。そのような戦い方が徹底された。
大会には元イタリア代表のトッティやブッフォン、ナイジェリア代表のカヌなどが出場していた。
そんな中、日本はグループリーグを2位で通過。
準々決勝ではナイジェリアに敗れたが、まだ世界を知らない若い世代が堂々と強豪国と渡り合えたことに日本中が歓声をあげ、そして希望をもった。
船越もこの選手権で世界と戦える感触を得た。
船越優蔵のプロ入り後
1996年、船越は鳴り物入りでガンバ大阪に加入する。
海外志向の強かった船越はオランダリーグのFCテルスターへサッカー留学をした。
テルスターは2部リーグ所属だったが、ここで船越はまずまずの評価を得る。
他のチームからも声をかけられていたが、所属元のガンバ大阪の帰国要請があり、日本に帰国する。
ところが、ガンバ大阪には絶対的エースのパトリック・エムボマがいた。
船越がガンバに復帰した年、エムボマはリーグ戦28試合に出場し25得点をあげ、応援スタンドには「神様 仏様 エムボマ様」の垂れ幕が踊った。
身長は船越の方が10㎝ほど高かったが、すべてにおいてエムボマの方が上だった。
それでもチャンスさえあれば結果を残せると思っていた船越は不満をもつ。
船越は当時を振り返ってこう語っている。
「何度かチャンスはあったと思うんですよ。でも、それをつかめなかった自分がいて、しかもつかめなかったことすらも見えないっていうのがその当時で。そうなると弱い人間だったんで、楽しいほう、楽しいほうに行ってしまって、サッカーだけに集中した生活ってのができなかった」
結局、ガンバ大阪には2年間在籍し、リーグ戦3試合出場のみ。
船越は結果を残せないままガンバを退団する。
船越は1999年にベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)へ加入する。
しかし失われた感覚は戻ることはなかった。
「Jリーガーって練習時間は短いから、拘束時間ってそんなに長くないじゃないですか。あとは自分次第で。だからその練習時間以外をどう使うかが大事なはずなのに、そういうのもまったくわかってなかったですね。だから、練習以外の時間を全部サッカーに費やすってことができなかったんです。それでチームはJ2に落ちて、自分はクビになって」
結果が残せずにいた船越は23歳になろうとしていた。
ともに世界で戦った中田英寿はイタリア・セリエAのローマへ移籍し、松田直樹はマリノスで不動のレギュラーとなり日本代表となっていた。
サッカーを辞める覚悟でいた時、当時のベルマーレ監督に就任した加藤久氏に声をかけられた。
加藤は船越に言う。
「オレがクラブに言ってやるからもう一年やってみろ」
船越は練習生として入団し、もう一度Jリーグで戦う権利を得た。
加藤は、船越の肉体を基礎から徹底的に鍛え上げた。トレーナーやコーチもそんな船越に付きっ切りで練習に付き合った。
ベルマーレでは思うような結果が出せなかったが、この時の経験があったからその後の自分があると船越は語っている。
湘南ベルマーレを退団した船越は大分トリニータに加入する。
大分ではリーグ戦27試合に出場し9得点。復調の兆しを掴む。
その後J2のアルビレックス新潟に声をかけられ加入する。
アルビレックスではセンターフォワードのポジションで重宝され、コンスタントに出場する。
J1昇格が見えてきた10月、船越に悲劇が襲う。
アキレス腱断裂。
残りのシーズンを棒に振る。
そしてJ1昇格を果たしたアルビレックス新潟で3年目のとき。
再び、アキレス腱断裂。
このときハッキリと切れる瞬間が分かったと船越は言う。
それでもくじけずにリハビリを続け、ようやく復帰した2006年。
みたび、アキレス腱断裂。
5年間在籍したアルビレックス新潟との契約も切れた。
2007年、アルビレックスを退団した船越はJ2の東京ヴェルディに加入する。
当時の東京ヴェルディ監督であるラモス瑠偉氏の期待に応えるべく、船越は躍動する。
ヴェルディのJ1昇格がかかったホームでの愛媛戦。
ここで船越は決定的な活躍をする。
J1昇格を手中に収めるヘッドでの決勝ゴール。
2ゴール目を決めた時、船越は真っ先にゴール裏の緑のユニフォームを着たサポーターのところへ駆け寄った。
数々のチームで期待されながらも、結果に応えられずにいた30歳の船越が最後の最後で大仕事を成し遂げたのだ。
東京ヴェルディは船越の活躍により、J1復帰を果たす。
船越は2009年まで東京ヴェルディでプレーし、2010年に当時神奈川県リーグに在籍していたSC相模原へ移籍。この年で引退した。
船越優蔵の引退後と現在
現在、船越はJFAアカデミー福島でU18世代の育成をしており、毎日ピッチで汗を流している。
もちろん船越自身の努力がなければ33歳までプロサッカー選手ではいられなかっただろう。
しかし、船越には、壁に当たった時、常に手を差し伸べてくれる人がいた。
それは船越自身の人柄があってのことだと思う。
若き頃に一緒に日の丸をつけて戦った男たちが、代表戦で世界を舞台に活躍する姿を見て、
船越はこんなことをインタビューで語っている。
「代表への焦りはなかったですよ。オレたちの「代表」だから応援する気持ち一杯です。オレもあそこに立ちたいとはもちろん思いますよ、サッカー選手だから。だけどあのときの仲間がやってるのが悔しくてと言うのはなくて。純粋に応援してました。もしかしたらそういうところがダメなのかもしれないですね。プロとして」
船越は波乱万丈の現役生活の中で、ゴールの数よりたくさんのかけがえのないものを得たのではないだろうか。
指導者となった今、プロとして大切なことを船越は教え続ける。