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今野章の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第356回】

165cmと小柄ながら豊富な運動量を誇り、所狭しとピッチを駆け抜ける今野章。

オフザボールの動きに秀でており、ボールを引き出す動き出しは一級品。

MFながらジュビロ磐田所属時はアジリティの高さを評価され右サイドバックを経験。

川崎フロンターレ所属時は、川崎の日本人選手初となるハットトリックを達成するなど、苦しいJ2時代を支えた選手として知られる。

今野章のJリーグ入り前

今野は1974年に岩手県大船渡市に生まれた。

小学校1年生の時に3歳上の兄の影響でサッカーを始め、地元の立根サッカー少年団に入団する。
小学校時代から全国大会に出場するなど活躍。

立大船渡第一中学校に進みサッカー部で活躍し、高校は地元の強豪である大船渡高校へ進学。

選手権には出場できなかったものの、高校2年から2年連続で国体に出場。
今野章は岩手県選抜、東北選抜に選出された。

高校卒業後、国士館大学へ進学。

大学の同期に浦田尚希(川崎フロンターレ)、佐藤尽(京都パープルサンガ)、1学年上に大柴健二(浦和レッズ)、2学年上に伊藤彰(川崎フロンターレ)、深川友貴(セレッソ大阪)、土橋正樹(浦和レッズ)、安藤正裕(清水エスパルス)などがいた。

大学2年次からレギュラーとして活躍し、3年次に関東大学リーグ優勝に貢献。4年次には関東大学リーグ準優勝、全日本大学選手権で優勝に貢献した。
尚、3年次には関東大学リーグの大会MVPに輝いている。

今野は大学卒業後、ジュビロ磐田に入団する。

今野章のJリーグ入り後

1997年、この年のジュビロは中盤にドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、福西崇史奥大介服部年宏などそうそうたるメンバーが揃っており、大学で実績があったにせよルーキーの今野に出番はなかった。

1998年、桑原隆監督の元、今野は右サイドバックにコンバートされる。
3月14日に開催されたゼロックススーパーカップの鹿島戦では右サイドバックで先発出場し、積極的な攻撃参加で好機を演出した。
その後も開幕戦から右サイドバックで4試合連続でスタメン出場を果たすも、その後はスタメンを外れ、このシーズンは4試合出場に留まった。

1999年も層の厚さに阻まれ、リーグ戦1試合の出場に留まると、2000年に川崎フロンターレへ移籍。

2000年の川崎は開幕から3連敗とスタートダッシュにつまづいたが、第4節のヴィッセル神戸戦で移籍後初出場を果たした今野が決勝ゴールを挙げ1-0での勝利に貢献した。
このシーズンはリーグ戦20試合に出場するも川崎は最下位に沈み、J2に降格した。

2001年、J2でリーグ戦35試合で9得点をマーク。川崎はエメルソンや我那覇和樹らの活躍で得点力は高かったが、同じくらい失点も多かった。この年はリーグ6位に甘んじ、昇格は果たせなかった。

2003年はキャリアハイとなるリーグ戦41試合に出場。中盤の潤滑油として躍動し、シーズン7得点をマーク。ゲームキャプテンも務めた。
昇格まであと一歩のところまで迫るが2位のサンフレッチェ広島に勝ち点1及ばず、惜しくも昇格を果たせなかった。

2004年、川崎は開幕当初からトップを独走。J2で圧倒的な強さを見せ、36節時点で昇格を果たす。これはJ2が発足して以来最速記録であった。
今野はトップ下としてプレーする機会が多く、当時加入2年目の中村憲剛とのコンビで活躍。リーグ戦24試合に出場し川崎の昇格の原動力となった。

2005年は再びJ1の舞台での戦いとなったが、スタメン出場は少なくベンチを温める日々が続きリーグ戦9試合の出場に留まった。

2006年もリーグ戦8試合の出場に留まり、このシーズン限りで現役を引退した。

今野章の引退後と現在

今野は引退後、川崎フロンターレで指導者として活躍している。

関塚隆、高畠勉、相馬直樹風間八宏という4人の監督のもとでトップチームのアシスタントコーチを務めた。

その後はフロンターレU-18監督を経て、U-15にて指導を行っている。

いまや川崎フロンターレはJリーグで最強と呼ばれるクラブとなった。

フロンターレは活動理念に人間育成、地域貢献、選手育成の3つのミッションを掲げている。

この3つのミッションにフロンターレは多角的に取り組み、チームの強さに還元していった。どのミッションを単体で見てもJでトップクラスの結果を残していると思う。

下部組織のレベルも非常に高く、三笘薫、田中碧、板倉滉など2022年ワールドカップで活躍した選手たちを多く輩出している。

現在、最強と呼ばれるフロンターレも、かつて苦難に満ちたJ2の時代があった。その苦しい時代にピッチで戦っていた男、今野章が現在のフロンターレの中枢を担っている。

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