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田北雄気の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第207回】

Jリーグ史上初となるGKでゴールを決めた男、田北雄気。

浦和レッズのGKとして長きに渡り土田尚史と熾烈なライバル争いを繰り広げた。

1996年には遂にリーグ戦全試合出場を果たし30試合で31失点という浦和レッズのリーグ最少失点の立役者となった。

至近距離での反応速度に長けており、PKにも無類の強さを発揮した田北雄気。

現役引退後はフットサル日本代表に選出されるなど活躍した。

田北雄気のプロ入り前


田北は1967年埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)に生まれた。

浦和市岸町サッカー少年団に入りサッカーを始める。

その後、白幡中学校を経て大宮東高校へ進学。
高校3年時に埼玉県代表として第64回全国高校サッカー選手権に出場を果たすも3回戦で鹿児島実業に0-2で敗れている。

高校卒業後に東海大学へ進学。田北の1学年上に岩井厚裕、1学年下に山口素弘、岡中勇人がいる。

東海大学で正GKとして活躍し、大学卒業後にJSL2部のNTT関東(現在の大宮アルディージャ)へ入団する。

NTTでは石井正忠や佐々木則夫らと共にプレーし、加入初年度からリーグ戦15試合に出場。

翌年には正GKに抜擢されリーグ戦30試合中25試合に出場を果たした。

NTT関東はJリーグの創設チームに立候補していたが、準備不足もあり外れてしまう。
田北はJリーグでプレーする為、同じ埼玉県に本拠地を置く浦和レッズへと移籍する。

田北雄気のプロ入り後

1993年5月16日のJリーグ開幕戦となったガンバ大阪戦は土田尚史の控えに回るも5月22日第3節横浜フリューゲルス戦でJリーグデビューを飾る。

その後は再び土田の控えに回るものの、土田の怪我により出番が回って来る。しかし秋にチェコスロバキアから新加入のミロにポジションを奪われてしまい再び控えに回った。

1994年は出番がないまま左膝を手術。約1年間のリハビリに努めた。

1996年は正GKに抜擢されるとリーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯の公式戦48試合にフル出場を果たす。

1996年Jリーグ第30節の横浜フリューゲルス戦ではPKのキッカーを務める。

ホーム最終戦、試合も2-0で勝っており後半残り時間が10分という状況であったが、日本代表GK楢崎正剛を相手に確実にゴールを決める。

この瞬間、田北はJリーグ初のゴールキーパーによるゴールという快挙を果たした。

1997年1998年はライバルの土田尚史と出場を分けあい、ポジション争いで切磋琢磨し合いながらお互いの質を高めていった。

2000年はJ2での戦いとなったが背番号1となり、リーグ戦32試合に出場。

守護神としてまだまだ活躍が期待されたが、西部洋平の成長もあり契約更改なしを通告される。

その後、現役続行の道を模索したが断念。この年の10月1日アルビレックス新潟戦が田北雄気、現役最後の試合となった。

田北雄気の引退後と現在

田北雄気は引退後、フットサルに転向し2001年にはGKとしてフットサル日本代表に選出。
アジアフットサル選手権に参加した。

その後は横浜FCのゴールキーパーコーチに就任している。

土田尚史の頁にも書いたが、田北と土田の熾烈なライバル争いは後に書籍となるほど激しく、そして深いものであった。

田北と土田は実力が非常に均衡しており、サポーターにも「土田派」と「田北派」がいた。

1998年に監督であった原博実は2人の力が変わらない事から、調子の良い方を起用しリーグ戦にはそれぞれ17試合づつ出場させた程だ。これは非常に珍しいことである。

ゴールキーパーは11人目のフィールドプレーヤーとしてポゼッションに参加する機会が増えている。

劣勢の中で迎える試合終盤のセットプレーにはゴールキーパーが攻め上がっていく姿を見るのは珍しくない。

今後もゴールキーパーのゴールが見れる機会はきっと訪れるがJリーグ史上初となるGKゴールを決めた田北雄気の名は今後も語り継がれていくだろう。

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