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根本裕一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第136回】

強烈な左足でのキック。

正確なクロスとプレースキックは根本裕一の大きな武器である。

その左足で放たれるシュートは正確無比であり、破壊力も備わっており、あのロベルト・カルロスにちなんで美白のロベカルと呼ばれた。

U23代表では阿部勇樹とともにプレイスキッカーを務めるなど信頼も厚く、渡り歩いた国内6チームでは根本裕一の左足から数々のゴールが生まれた。

クリーンな守備も持ち味で、Jフェアプレー個人賞を2度受賞(2003年、2006年)した初の選手となった根本裕一に迫る。

根本裕一のプロ入り前


根本は1981年に茨城県鹿嶋市に生まれた。

小学校2年の時にサッカーを始め、5年生の時には地元の先輩チームに選出されるなど活躍した。

1994年、中学入学後、13歳の時に鹿島アントラーズジュニアユースに所属。

それまでは正確に扱える左足でのキックを武器にMFとしてプレーしていたが、この頃にサイドバックへ転身する。

高校に入学後、アントラーズユースに昇格。同期には野沢拓也がいた。

根本は1年時からレギュラーに定着すると1997年のクラブユースで準優勝を果たす。

1998年にはJユースカップでジェフユナイテッド市原ユースを決勝で下し、鹿島アントラーズユース初の優勝に貢献した。

高校卒業後、野沢拓也と共に鹿島アントラーズのトップチームに昇格。

生え抜きの左サイドのスペシャリストとして期待された。

根本裕一のプロ入り後

2000年、トップチームに加入した根本だったが左サイドバックには相馬直樹がおりルーキーイヤーは出場機会がなかった。

2年目のシーズンとなった2001年3月の東京ヴェルディ戦でJリーグ初出場を果たす。

不動の左からサイドバックとして君臨していた相馬直樹が左膝半月板損傷で離脱し、根本にチャンスが訪れたかと思ったが左サイドバックにはそれまでボランチとして起用されていた中田浩二が抜擢された。

結局、根本は2年目のシーズンも5試合のみの出場に留まり2003年にはJ2のセレッソ大阪へレンタル移籍を果たす。

セレッソではリーグ戦34試合に出場し直接フリーキックで得点を挙げるなど4得点を挙げ、J1復帰に貢献。

翌年は鹿島に戻らずにベガルタ仙台へレンタル移籍し岩本輝雄と共に左サイドを支配するも、この年ベガルタ仙台はJ2に降格した。

根本は左サイドバックとしてクリーンな守備を見せ、フェアプレー個人賞を受賞した。

ベガルタ仙台で1年のみプレーした後はJ1の大分トリニータへ。

大分では不動の左サイドバックとして活躍した。

200年にはアテネオリンピック出場を目指すU23日本代表に選出。

正確な長短のパスと攻撃センス、そして最大の武器である左足でのキックが評価され、試合ではコーナーキックやフリーキックを任されるなど期待され、アジア予選で活躍するも2004年のオリンピック登録メンバーには選出されなかった。

大分には2006年から完全移籍で加入し、2006年には全試合に出場し一枚も警告を貰わないというクリーンな守備を見せ、2度目となるフェアプレー個人賞を受賞。

サポーターからの人気も高く、JOMOオールスターサッカーにも3度出場を果たした。

出場機会が減少した2008年シーズン途中にジェフ千葉へレンタル移籍。

しかしジェフでは出場機会に恵まれずに2008年のシーズン終了後に、トライアウトを経てJリーグ入りを目指す北信越リーグのツエーゲン金沢に移籍をした。

2009年、北信越リーグで格の違いを見せつけ金沢のJFL昇格に貢献。

2010年からはJFLで久保竜彦らとともにプレーし2012年で現役を引退した。

根本裕一の引退後と現在

根本裕一は引退後、2014年に鹿島アントラーズつくばジュニアユースコーチに就任。

2016年からはつくばジュニアユースの監督に就任している。

プロとしてデビューを果たした鹿島アントラーズでは出場機会に恵まれなかったものの、その後に所属したクラブでは期待に応える活躍を見せた根本裕一。

特に大分トリニータではシャムスカ監督の元、西川周作、高松大樹、梅崎司などと共に大車輪の活躍を見せた。

かつて美白のロベカルと呼ばれた左足のスペシャリストは指導者として鹿島アントラーズに戻り、自身の経験を継承し常勝軍団の基盤作りに一役かっている。

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