順天堂大学では背番号10を背負い攻撃的MFとして活躍し浦和レッズに入団した早川知伸。
注目のJデビュー戦では右サイドで何度も仕掛け存在感を発揮するも、延長戦で靭帯損傷の大怪我を負いその後は出場機会に恵まれなかった。
しかし移籍した横浜FCでDFにコンバートされてから早川は躍動する。サイドバックやセンターバックでは献身的な守備でチームを支えた。 2008年に移籍したジェフ千葉では守備の救世主として奇跡的な残留に大きく貢献。
その後に復帰した横浜FCでは得点も期待できる守備の要として君臨した。
早川知伸のJリーグ入り前
早川は1971年静岡県清水市に生まれた。5歳の頃からサッカーを始める。
静岡市立清水有度第一小学校へ入学。当時まだJリーグは発足していなかったがプロサッカー選手への夢に向かって練習を重ねていた。
静岡市立清水第八中学校へ進学。1学年上に西澤明訓がいた。
中学卒業後、サッカーの名門である清水市立商業高校へ入学。早川の2学年上には川口能活、田中誠、1学年上には安永聡太郎、佐藤由紀彦、同学年には小林弘記、松原忠明がいた。早川は全国高校サッカー選手権大会、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会、インターハイ優勝も経験した。
高校卒業後は順天堂大学へ進学。大学では2学年上に川口信男、同学年に山口伸一、迫井深也がいた。早川は大学で背番号10を背負い、攻撃的MFとしてチームを牽引。早川が大学2年時には天皇杯2回戦でブランメル仙台(現ベガルタ仙台)を0-1で破るジャイアントキリングを演じた。
2000年、早川は浦和レッドダイヤモンズへ入団する。
早川知伸のJリーグ入り後
2001年2ndステージ第6節鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを飾る。試合は90分で決着が着かず延長戦に突入。早川はこの延長戦で靭帯損傷という大怪我を負ってしまう。
その後、懸命なリハビリを行い復帰を目指すも2002年で契約満了に伴い浦和レッズを退団する。浦和では3年間でデビュー戦のみの出場となった。
2003年、J2の横浜FCへ移籍。
横浜FCでは対人プレーの強さを評価されDFへコンバートされる。右サイドバックやセンターバックとしてプレーした。
2006年にはレギュラーとしてリーグ戦39試合に出場し悲願のJ2優勝、J1昇格に大きく貢献した。
横浜FCは2007年、元日本代表の奥大介、久保竜彦、東京ヴェルディからジウマール・シウバを獲得し初のJ1へ挑むも前半戦を最下位で折り返し、10月20日の神戸戦に敗れると早くもJ2降格が決定した。
2008年はJ2での戦いとなったが早川は残留。1年でJ1復帰を目標にしていたがキャンプでの怪我が長引き、出場機会が減少する。シーズン途中、J1残留争いを繰り広げていたジェフユナイテッド千葉の緊急補強としてレンタル移籍。守備の立て直しに見事に対応し、ジェフのJ1残留に大きく貢献した。
2009年、横浜FCに復帰。
守備の要としてリーグ戦42試合に出場し主力として活躍。最終節のアビスパ福岡戦では同点ゴールを決め2-2の引き分けに貢献。
2010年はキャンプから怪我で出遅れたものの、チームは開幕から3連勝、4連敗・5連敗と浮き沈みが激しいシーズンとなる。中断明け以降は出場機会にも恵まれたが同シーズンをもって現役を退いた。
早川知伸の引退後と現在
早川は引退後、2011年から横浜FCのユースコーチに就任。
2015年からはトップチームのコーチを務めている。
2019年、横浜FCは躍進を続けた。松尾佑介や中山克広ら若手と松井大輔、レアンドロ・ドミンゲスらベテランが見事に融合し躍動感あるサッカーを展開した。
早川が横浜FCへ移籍してきた2003年頃は、横浜FCは固定の練習場を持たないクラブだった。練習場を毎日転々とし、練習場所によってはシャワーや更衣室が無いなんていうのも当たり前の状況だった。今ではクラブハウスも専用練習場もありサッカーをするのに不自由ない環境が整っている。選手層もJ2ではトップレベルの戦力が揃っている。
そして2023年からはJ3の松本山雅FCのコーチに就任した。
何も無かった時代を戦った男は現在、コーチとしてチームを指導し念願のJ1へ向けて歩みを速めていく。