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小林慶行の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第254回】

シビアな局面でも、一本のパスで状況を打開出来るパスセンスと戦術眼に優れたMF小林慶行。

ヴェルディの監督を務めた名将アルディレスは小林慶行について「一言で言えばとても優れた選手である」と称えその才能に惚れ込んだ。

小林慶行は中盤のコントロールタワーとしてヴェルディ、大宮アルディージャ、柏レイソル、アルビレックス新潟で活躍。

小林慶行の安定したキープ力と展開力はチームの大きな戦力となった。

小林慶行のJリーグ入り前


小林慶行は1978年埼玉県与野市に生まれた。実弟に後に柏レイソルやモンテディオ山形で活躍する小林亮がいる。

与野北小学校の時に与野西北サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始める。

八王子中学校の時に大宮FCに所属。その後、桐蔭学園高校へ入学する。

桐蔭学園では同学年に戸田和幸、内田潤がおり、小林の1学年上は米山篤志、盛田剛平、一木太郎がいた。李国秀監督の元、規律のあるパスサッカーを学ぶ。小林は入学時、身長160センチに満たない口数の少ない子であったと後に李国秀は語っている。

全国高校サッカー選手権には中村俊輔のいる桐光学園が神奈川代表で出場した為に出場は叶わなかった。

高校卒業後、学業推薦で慶應大学に入学することも可能なほど成績は優秀だったが、サッカーのために駒沢大学に進学。

大学では早くからレギュラーとして活躍し、総理大臣杯や全日本大学選手権で優勝を飾り関東大学リーグベストイレブンや、全日本大学選抜にも選出された。

大学3年までに卒業に必要な単位を修得。高校時代の恩師である李国秀がヴェルディ川崎の総監督に就任しており、李国秀から声をかけられ1999年の1月にヴェルディ川崎への入団が決まった。

小林慶行のJリーグ入り後

1999年3月6日1stステージ開幕戦である清水エスパルス戦にFWでJリーグ初出場。後半35分に強烈なボレーシュートを叩き込み初ゴールを記録した。

その後も李国秀監督の元で、林健太郎、山田卓也、米山篤志という桐蔭学園出身の選手とともに新生ヴェルディの象徴的な存在になった。この年はルーキーながらリーグ戦30試合に出場している。しかしその後は怪我の影響もあり、出場機会を減らす。

2003年、アルディレスが監督に就任後は高い評価を受けボランチ、トップ下として躍動する。アルディレスは小林慶行について「日本代表入りも間近である」と絶大の信頼を寄せた。

2004年度の天皇杯では決勝のジュビロ磐田戦では退場したため、優勝の瞬間にピッチにいることが出来なかったが久々にヴェルディにタイトルをもたらす活躍を見せた。

2005年チームがJ2降格となりチームの若返りを図るフロントと意見の相違により退団を決意。

2006年に大宮アルディージャに移籍。

大宮では小林大悟と共にチームの主力として活躍。2008年からはキャプテンも務めた。

2008年第13節vs川崎フロンターレ戦では後半42分に自陣からの長い直接FKを右足で沈めた。その距離、55メートル。GKと外国籍選手を除く日本人フィールドプレーヤーの史上最長弾となった。前に出ていたGK川島永嗣をを確認、頭上を越えたボールは、きれいな弧を描いて相手ゴールに吸い込まれた。このゴールは多くのメディアで取り上げられた。

2009年シーズン途中に柏レイソルへ期限付き移籍。J1残留争いをしているチームのキャプテンの移籍はきわめて異例であった。

2010年アルビレックス新潟へ完全移籍。2010年、2011年と主力選手として活躍したが2012年は出場機会に恵まれずこの年限りで退団。

2013年2月、引退を表明した。

小林慶行の引退後と現在

小林は引退後、指導者に転身。ベガルタ仙台のコーチに就任しヘッドコーチを務めた。

小林は現役時代、キープ力が高くボールの預けどころになって周りの選手のプレーを落ち着かせる事の出来るボランチだった。

右足から繰り出される小林の長短のパスは非常に正確で、守備だけでなく攻撃を司る舵取り役としても絶大な存在感をもっていた。

残念ながらタイトルには恵まれずヴェルディ時代の天皇杯優勝のみとなったが、チームに恵まれていれば小林慶行は日本代表に選出されてもおかしくないポテンシャルを秘めた選手であったと思う。

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