身長189センチという長身を生かし、鉄壁の守備と言われた「川崎山脈」の中心選手として活躍した寺田周平。
長身ながら足元の技術も正確で、ボランチとしても高いレベルで機能した。
2008年には33歳という年齢で、岡田武史監督から日本代表に初招集され、Jリーグ発足後の最年長出場記録として話題になった。
寺田周平のJリーグ入り前
幼いころは佐賀県に住んでおり、父や兄の影響で野球をやっていた。
小学校3年生の時に横浜に引っ越してサッカーと出会う。家の近くで日産のスクールをやっていたことがきっかけで通うようになり、日産FCプライマリーに所属する。
寺田は当時から身体は大きかったが、DFではなく攻撃的なポジションでプレーしていた。
小学校在学中に横須賀に引っ越したため、横浜まで電車で片道1時間半かけて練習に通う日々を送った。
横須賀市立不入斗中学校卒業後、神奈川県立横須賀高校に進学。
高校時代は選手権への出場は叶わなかったが、高校3年次に神奈川県選抜として国体に出場している。
高校卒業後、東海大学へ進学。同学年に片渕浩一郎(サガン鳥栖)、2学年上に服部年宏(ジュビロ磐田)がいる。
大学2年次に1995年ユニバーシアード福岡大会の日本代表に選出。同大会には上野優作(アビスパ福岡)、石丸清隆(アビスパ福岡)、望月重良(名古屋グランパス)、山田卓也(ヴェルディ川崎)、斉藤俊秀(清水エスパルス)らが選出された。
この大会で日本はサッカーの世界大会で初めて優勝し「世界一」となった。
大学4年次にも1995年ユニバーシアードシチリア大会の日本代表に選出。
同大会には川口信男(ジュビロ磐田)、盛田剛平(浦和レッズ)、米山篤志(ヴェルディ川崎)、和多田充寿(ヴィッセル神戸)、箕輪義信(ジュビロ磐田)らが選出されている。
この大会はグループリーグで敗退している。
大学卒業後、横浜Fマリノス入団が決まりかけたが、メディカルチェックに引っかかり入団は白紙となった。
その後、1年間浪人し、川崎フロンターレの練習に参加をしたのがきっかけで入団が決まる。
寺田周平のJリーグ入り後
1999年、J2の川崎フロンターレに入団した寺田は背番号6を背負い、開幕戦のアルビレックス新潟戦に先発出場。
その後もコンスタントに出場する。シーズン中盤は肉離れのために戦列を離れた時期もあったが、リーグ戦12試合の出場を果たす。
2000年、J1に昇格した川崎で開幕戦のアビスパ福岡との試合にスタメン出場。
第10節ジュビロ磐田戦では待望のJリーグ初ゴールをマークするが、後半40分に退場処分となり、試合も1-5で敗れている。
その後、サテライトでの試合中に左ひざ前十字じん帯を損傷。1年をリハビリに費やすことになりシーズンを棒に振ることになった。
怪我から復帰後も、肉離れや膝の怪我の再発もありその後2年半はほとんど試合に出場することができなかった。
2004年に関塚隆監督の元でセンターバックとして復帰。リーグ戦33試合に出場。
リーグ最少失点のDFの要として活躍し、J1昇格に大きく貢献した。
その後も川崎フロンターレの不動のレギュラーとして活躍。
2008年には岡田武史監督から日本代表に招集された。33歳での代表初出場は、Jリーグ発足後では最年長の記録だった。
4月の合宿を挟み、5月のパラグアイ戦で代表デビュー。田中マルクス闘莉王とセンターバックでコンビを組んだ。
2008年11月にはアジア最終予選のカタール戦に出場。3-0での完封勝利に貢献している。
しかしその後はセンターバックには田中マルクス闘莉王と中澤佑二が固定で起用されるようになり、2009年3月の招集を最後に呼ばれなくなった。
2010年、古傷の膝の状態が悪化し、出場機会が減少。この年限りで現役を引退した。
寺田周平の引退後と現在
寺田は引退後、川崎フロンターレの下部組織で指導者を務めている。
U-15監督、U-18コーチを経てトップチームコーチに就任。
2022年第21節ガンバ大阪戦では、新型コロナウイルスの濃厚接触者の判定を受けた鬼木達監督の監督代行を務め、4-0での勝利に貢献している。
寺田は大学卒業時に、マリノスへの入団が決まりかけるも、首の怪我により断念。その後の1年間、先の見えない浪人生活を送った。
ようやくプロサッカー選手となるも、入団後は度重なる怪我で2年半という長い間、満足にサッカーができなかった。
そこから掴んだ2008年の日本代表の初舞台。寺田は33歳になっていた。
気持ちや情熱は燃えたぎるものがあっても、この時には既に寺田の身体は悲鳴をあげていたのかもしれない。
日本代表初招集からわずか2年後、2010年の南アフリカワールドカップが開催された年に引退した寺田周平。
遅咲きの苦労人が世界を舞台に戦う姿を見たかったファンは多いだろう。