瞬発的なスピードとシュートテクニックに長け、Jリーグでも活躍した安貞桓。
2002年ワールドカップ(W杯)で韓国代表をベスト4まで躍進させた立役者として、世界的に脚光を浴びた。
その端正なルックスもあり、安貞桓は「韓国のベッカム」と呼ばれ、日本でも大きな人気を獲得した。
安貞桓はJリーグのみならず、イタリアやドイツ、フランスリーグなどにも挑戦し続けた。
韓国が誇る英雄、安貞桓に迫る。
安貞桓のJリーグ入り前
母子家庭で育った安貞桓は、叔母や祖母の家を転々とするなど不遇な幼少期を過ごす。
大林(デリム)初等学校でサッカーを始め、南ソウル(ナムソウル)中学校、ソウル機械工業高等学校を卒業。
京畿道の亜洲大学校を卒業後、Kリーグの釜山大宇ロイヤルズ(現釜山アイパーク)へ入団。
安貞桓は加入一年目から躍動する。トレードマークとなった絶妙なトラップとスピードに乗ったドリブルで相手を置き去りにするプレースタイルでブレイク。
加入一年目にしてKリーグベストイレブンに選出。翌年にはKリーグMVPに選ばれた。
安貞桓は実力とその容貌で女性ファンの関心を集めた。大勢の女性ファンが集まるため、所属チームが宿舎を移すほどだったという。
2000年にはイタリアセリエAのACペルージャへ移籍。
前年まで同チームに在籍し活躍した中田英寿と比較されるなど注目を集めた。
リーグ戦の初戦こそ先発フル出場を果たしたものの、その後は第3節から11試合連続で不出場。
それでもリーグ戦34節中15試合に出場し少ないチャンスの中4得点を挙げた。
ペルージャでは2年目に背番号10を背負うなど期待されたが2年目のシーズンも15試合の出場で1得点に留まった。
2002年の日韓ワールドカップに安貞桓は韓国代表として出場。
グループステージのアメリカ戦で1ゴールを挙げて、決勝トーナメント1回戦のイタリア戦で挙げたゴールデンゴールにより国民的スターとなった。安貞桓は韓国をベスト4まで引き上げる原動力となった。
しかし、試合後の安貞桓の「今日我々はイタリアサッカーを上回った」という発言(韓国とイタリアのメディアが報道、安はその一部を認めていない)が引き金となり、ペルージャとの契約が解除となる。
その後、引き続きヨーロッパでのプレーを望んだ安貞桓だったが有力なオファーはなく、紆余屈折がありながらも2002年9月にJリーグの清水エスパルスへ入団が決まった。
安貞桓のJリーグ入り後
安貞桓はワールドカップでの活躍もあったことから、日本でも人気を集めた。加入当初はコンディション不良もあり思ったような活躍は出来なかったが、2年目にはリーグ戦28試合に出場し11得点を挙げる活躍を見せた。
2004年1月には横浜F・マリノスへ完全移籍。
久保竜彦や奥大介といった日本代表選手と連動し、優勝への天王山となった1stステージ最終節鹿島戦を含む終盤4試合で4試合連続ゴールするなどマリノスの年間優勝に貢献した。
翌2005シーズンもマリノスでスタートを切るが、シーズン途中にフランス1部リーグのFCメッツへ移籍。リーグ戦16試合に出場し2得点を挙げた。
その後はドイツ1部リーグのMSVデュースブルク、韓国Kリーグの水原三星ブルーウィングス、釜山アイパーク、2009年は中国スーパーリーグの大連実徳と各国を転々とした。
中国の大連実徳には3シーズン在籍し、通算65試合に出場し18得点を挙げるなど、エースストライカーとして見事な活躍をみせた。
そして2012年1月31日にソウルで引退記者会見を行い、36歳で14年間の現役生活を終えた。
安貞桓の引退後と現在
安貞桓は引退後、2012年4月から1年間の任期でKリーグの名誉広報チーム長に就任した。
その後はテレビのバラエティ番組への出演やサッカー番組の解説委員として活躍している。
安貞桓は苦労の末、日本に渡った安貞桓は清水エスパルスで54試合で26得点、横浜Fマリノスでは43試合で21得点をマーク。人気のみならず、その得点能力の高さを証明した。
安貞桓はワールドカップでの活躍はもちろん、韓国人初のイタリアセリエAプレーヤーとなるなどその功績は大きい。
夢を馳せた海外でのプレーは突然の契約解除や希望するチームからオファーがこなかったりなど、必ずしもうまくいったわけではなかった。
しかし安貞桓という選手が韓国のサッカー界を盛り立ててきたと言っても過言ではない。