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奥大介の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第88回】

独特なリズムと柔らかいタッチでピッチで漂うようにプレーする。

小柄ながらボールキープ力に優れ、違いを見せつけられる天才プレーヤー、奥大介。

ジュビロ磐田の黄金時代、横浜Fマリノスが2連覇を果たした時代、その中心に必ず奧大介はいた。

豊富な運動量を武器に、ペナルティエリア付近での鋭いドリブル、目がさめるようなラストパス、意表を突くチャンスメイク、美しい弧を描くフリーキックなど、奥は溢れる才能を遺憾なく発揮し、その独創的なプレーは多くの観客を魅了した。

主役にも脇役にもなれるキープレイヤー、奥大介に迫る。

奥大介のプロ入り前


奥は1976年に兵庫県尼崎市に生まれた。

小学校3年よりサッカーを始める、小学生時代は尼崎市内の浦風フットボールクラブで、小田南中学校時代はサッカー部でプレーした。

中学卒業後、神戸弘陵学園高等学校に入学。

2年時に全国高等学校サッカー選手権大会に出場。2回戦で室井市衛(元鹿島アントラーズなど)や浅利悟(元FC東京)率いる武南高校に敗れる。

3年時にも全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、日大山形、桐光学園を下してベスト8入りを果たした。(準々決勝で城彰二、遠藤彰弘擁する鹿児島実業に0-2で敗戦)

奥は大会優秀選手に選出される活躍を見せた。

奥は高校卒業後の1994年、Jリーグ参入したばかりのジュビロ磐田へ加入する。

奥大介のプロ入り後

ジュビロ磐田加入後、2年間はJリーグでの出場はなかったものの、U-19およびU-20日本代表に選出され、アジアユースおよびワールドユースに出場。 ワールドユースでは準々決勝のブラジル戦にて1得点を挙げる活躍を見せる。

その後ブラジルに逆転され、日本は破れはしたものの、中田英寿や松田直樹らと後に日本代表を担う選手たちとともに世界ベスト8入りを経験し、奥は自信を深めた。

3年目の1996年から出場機会を増やし、1997年にはレギュラーに定着。リーグ戦26試合に出場し9得点を挙げジュビロ磐田の年間優勝に貢献した。

1998年はキャリアハイとなる32試合に出場12得点の活躍を見せ、Jリーグベストイレブン、日本代表初選出(同年10月のエジプト戦でデビュー)など、奥にとって飛躍の年となった。

奥はその後もジュビロ磐田の中盤に欠かせない人物として、名波浩や福西崇史服部年宏、藤田俊哉とジュビロ磐田黄金時代を支えた。

2002年、奥は横浜Fマリノスへ移籍。

日本代表にもコンスタントに選出されていたが、チームメイトの中村俊輔、中澤佑二とともに日韓大会の代表からは落選を余儀なくされた。

岡田武史監督がマリノスの指揮官に就任した2003年にはキャプテンに就任。

2003年、2004年シーズンに優勝を果たしJリーグ連覇を経験。奥は2年連続でベストイレブンを受賞した。

特に中村俊輔との共演は秀逸で、中村がセリエAに移籍するまで、中盤でコンビネーションを発揮した。

中村が絶対的司令塔としてマリノスの中盤を支配できていたのは、影で奥が絶妙なポジショニングを取り、汗かき役として中盤のスペースを埋めていたからに他ならない。

中村にマークが集まれば、今度は奥が独特のリズムでチャンスメイクを始める。

フィニッシャーの久保竜彦とも相性の良さを見せ、久保の2003年のマリノスでの公式戦17ゴールの多くは奥大介からのチャンスメイクから生まれた。

奥はマリノスでの活躍が認められ、日本代表にも再抜てきされるようになった。

2003年にはコンフェデレーションズカップ(フランス)や東アジア選手権(日本)にも名を連ねた。

日本代表では1998年から2004年まで召集され、26試合に出場、2得点の成績を残した。

奥は2006年シーズン終了後、マリノスを退団。久保竜彦とともに同じ横浜に本拠地を置く横浜FCへと移籍。

16試合出場1得点の成績を挙げたが、シーズン終了後横浜FC側の慰留にも関わらず現役を引退した。

怪我がちではあったものの、当時まだ31歳という若さで、プレーヤーとして十分ピッチに立ち続けられる年齢だっただけに奥の決断は惜しまれた。

奥大介の引退後

奥は引退後、2008年に横浜FCサッカースクールのテクニカルアドバイザーに就任、同年3月には設立間もないフットサルクラブ、エスポラーダ北海道のテクニカルアドバイザーを兼任する事となった。

その後も多摩大学目黒高校のサッカー部監督や横浜FC強化部長など順調にキャリアを重ねていったが、2012年に同職を退職。

その後は私生活の問題が取り上げられるなどし、サッカーから離れた生活を送っていたが2014年10月、沖縄県宮古島市で交通事故による死亡が確認された。

享年38歳だった。

2015年1月18日、ヤマハスタジアムにおいて、三浦知良・名波浩・中澤佑二が発起人となり、奥が所属した3クラブによる追悼試合が行われ、多くの日本を代表するプレーヤーが集まり、奥の早すぎる死を偲んだ。

奥大介が私生活のトラブルを元に世間を騒がせたのは事実である。

しかしプライベートな問題にだけフォーカスを当てるマスコミや、奥のプレーを知らない世間がその問題ばかり騒ぎ立てた報道には悲しさがこみ上げる。

奥大介は紛れもなくJリーグ史に名を残す天才プレーヤーであったことはここに記しておきたい。

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