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北嶋秀朗の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第34回】

高校時代、北嶋はまぎれもなくスター選手だった。

市立船橋高校のエースとして、全国高校サッカー選手権で2回の全国制覇を経験。

高校3年時には得点王となり、全国高校サッカー選手権で通算16点の北嶋の記録は当時の最多記録だった。(後に、平山相太、大迫勇也が記録を塗り替える)

当時、北嶋についたニックネームは「シンデレラボーイ」。

多くの人気を集め、注目の存在となった。

瞬時にトップスピードになり、相手マークを外すと、その天性のシュートセンスでどんな体勢からでもゴールを奪う北嶋は今後のJリーグを、いや日本代表を背負って立つストライカーになるであろうスケールの大きさをうかがわせた。

柏レイソルのエース、北嶋秀朗に迫る。

北嶋秀朗のプロ入り前


北嶋秀朗は1978年、千葉県習志野市に生まれた。

習志野市の香澄小学校に入学し香澄FCに所属。

サッカーの基礎を学んだ。

地元の習志野市立第四中学校を卒業し、選んだ高校は強豪の市立船橋高校だった。

北嶋は1年生ながら選手権で6得点を挙げ、市立船橋の全国制覇に貢献する。

3年時にはキャプテンとして背番号10を背負い、市船の絶対的エースとして得点を量産した。

3年時の大会では決勝戦で中村俊輔がいる桐光学園を2-1で下して得点王に輝く。

この大会は北嶋や中村俊輔の他にも、小笠原満男や遠藤保仁など有力な選手が多く出場していた。

大会で一躍有名になった北嶋は地元のJリーグチーム「柏レイソル」に鳴り物入りで入団する。

しかし、当時の選手権での活躍について、北嶋は後年こう語っている。

「プロになってから、選手権で活躍したことが本当に嫌だったんです。周りからの「いつ点を取るの?」、「いつ試合に出るの?」という変なプレッシャーもあったし、自分がまだそのレベルに達していないことは自分自身が一番よく分かっていた」

事実、北嶋はプロに入団後、大きな壁にぶち当たることになる。

北嶋秀朗のプロ入り後

柏レイソルに入団した北嶋は1年目にリーグ戦6試合出場、無得点でシーズンを終える。

1年目にプロの洗礼を浴び、活躍できない北嶋を見て、ファンやマスコミがいなくなっていくのをみてプロの壁を実感したと語っている。

2年目は9試合に出場して2得点を挙げたが、まだまだレギュラーとはいえず十分な活躍はできなかった。

2年目のシーズン終了後、北嶋はブラジルに短期留学をする。

監督の言っていることを理解するためにポルトガル語も1から勉強した。

決して治安が良いとは言えない状況で北嶋は自分と向き合った。何かを掴むために必死だった。

3年目。北嶋はブラジル留学の結果を出す。

17試合に出場して7得点。

そして4年目には覚醒し、30試合に出場し17得点を挙げる。

名実ともに柏のエースとなった北嶋は日本代表にも選出。

2000年のアジアカップのウズベキスタン戦で代表デビューを飾り、その試合で初得点を記録した。

しかし、当時の代表には高原直泰(当時ジュビロ磐田)や柳沢敦(当時鹿島アントラーズ)がおり、代表定着は出来なかった。

2003年には清水エスパルスへ移籍。森岡隆三斎藤俊秀澤登正朗など経験豊富な選手が多いチームに所属し、中堅選手として3年間プレー。エスパルスでは48試合に出場し7得点を記録した。

そして2006年には古巣となる柏レイソルに復帰を果たす。

柏はJ2に降格したばかりだったが、北嶋はチームを精神的支柱として支え、J1昇格に貢献した。

その後も柏レイソルで2012年までプレー。年を重ねるごとに出場時間も得点も少なくはなっていったが、ピッチに立てば、ポストプレーやタメをつくるプレーで攻撃のリズムをつくった。

2011年には柏レイソルのJ1優勝とACL進出に貢献。

今後の活躍も期待されたが、2012年途中にオファーを受けていたJ2のロアッソ熊本に移籍。

2シーズンを熊本で過ごし、2013年をもって現役を引退した。

北嶋秀朗の引退後と現在

北嶋は引退後2014年にロアッソ熊本のアシスタントコーチに就任。

アルビレックス新潟のコーチを経て、現在はロアッソ熊本のヘッドコーチに就任。

2021年からは大宮アルディージャのヘッドコーチに就任している。

北嶋はどのような指導者になりたいのかというインタビューにこう語っている。

「自分の経験を生かして、選手とたくさん話をして、足りないものを逆算して練習に付き合う、寄り添うようなスタンスでいたい。選手の一番近いところにいられる指導者になりたい」

北嶋のプロ生活は決して順風満帆ではなかったのかもしれない。

しかし北嶋が経験した16年間のストライカーとしての貴重な経験は、今後も語り継がれていく。

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