1対1に強い屈強なセンターバック。
強靭な体躯を武器にした勝矢寿延は、Jリーグ創世記に活躍したDFだ。
あのドーハの悲劇もピッチの上で経験したが、それは本職のセンターバックではなく左サイドバックとしてだった。
日本の左サイドバックは、レギュラーの都並敏史が骨折で離脱後、なかなか後任が埋まらなかった。
その中で僅かながら経験のあった勝矢に白羽の矢が立った。
あと一歩のところで逃したアメリカワールドカップへの道。
だが勝矢は都並敏史の代わりになりきるのではなく、勝矢本来の力で最後までピッチの上で戦った。
勝矢寿延のプロ入り前
長崎県立島原商業高等学校のサッカー部に所属した。
島原商業高校卒業後は大阪商科大学へ進学。
大学卒業後は日本サッカーリーグ1部の本田技研へ加入。
加入初年度の1984年シーズンは16試合に出場し1得点の記録を残した。
2年目の1985年は22試合に出場。この年から日本代表にも抜擢されている。
本田には1990年まで在籍し、リーグ戦140試合に出場、6得点を挙げた。
1991年は日産(現横浜Fマリノス)へ移籍した。
勝矢寿延のプロ入り後
Jリーグ開幕に伴い、横浜マリノスとなっても勝矢はDFの中心人物としてプレー。
主に右サイドバックを守りながら、井原正巳や永山邦夫などとマリノスの堅守を支えた。
1994年からはジュビロ磐田へ移籍。
後の日本代表となる服部年宏や遠藤昌浩らとディフェンスラインを支えた。
ジュビロ磐田には1997年まで在籍。99試合に出場し2得点を挙げた。
現役最終年となる1998年はセレッソ大阪でプレー。
背番号15を背負い、14試合に出場した。
日本代表としての勝矢寿延
勝矢は日本代表としては1985年から1993年まで選出され、国際Aマッチ27試合に出場した。
日本代表として1993年のアメリカワールドカップアジア最終予選には左サイドバックとして3試合に出場した。
アジア最終予選を控えた1993年9月のスペイン合宿で、勝矢は当時の監督であるオフト氏により左サイドバックに抜擢される。
当時の日本代表の左サイドバックは都並敏史しかおらず、左サイドから仕掛けるラモス瑠偉、三浦知良との連携プレーは日本の生命線であった。
合宿中、勝矢は都並の部屋を訪れ、ラモスがボールを持った時はどうサポートすればよいのか、ラモスやカズとどのような位置関係をとればよいのか尋ねたが、都並はこう答えたという。
「カッちゃん(勝矢)は、カッちゃんのプレイスタイルでやればいいんだよ。オレにないものを持っているんだから、自分の色を出せばいいんだ。オフトも、それを求めていると思うよ」
勝矢は、この都並の言葉で気を楽にして自分らしくプレーしようと思えたという。
左サイドバックとしては実に8年ぶりの実践だったが、勝矢は最後まで自分らしく全力でプレーし、フル出場を果たした。
残念ながらワールドカップには出場できなかったが、勝矢は立ち上がれなくなるほど最後まで全力で戦った。
勝矢寿延の引退後と現在
勝矢は1998年に引退後、1999年からセレッソ大阪のスカウト、ユースコーチ、U世代の監督を務めた。
セレッソ大阪スカウト総括責任者を務めた後、現在はセレッソ大阪のスクールマスターに就任している。
勝矢はドーハの悲劇の経験を元に、若い世代へもっと細かく伝えていかなければならないと話す。
「世界との差を埋めるには、時間帯や点差に応じた試合運びへの意識が必要」
ドーハの悲劇は失敗ではない。
今の日本サッカーの躍進はその悲劇があってこそあるものだ。
本職ではないポジションに戸惑いながらも、最後まで自分らしくピッチの上で躍動した勝矢寿延の残した功績は大きい。