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前園真聖の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【300回】

天性の才能をもったドリブラーはJの舞台で躍動した。

柔らかなファーストタッチから緩急のついたステップで巧みに相手を交わしていく。スペースを突いたキラーパスや急所を突いたフリーキック。前園真聖のプレーのひとつひとつが放つ眩い光に観衆は魅了された。

横浜フリューゲルスで頭角を現すと21歳の若さで日本代表へ。そしてアトランタオリンピック日本代表のキャプテンとしてブラジルを破るというジャイアントキリング。茶髪にピアスをつけた日本のニュースターをメディアは放っておく訳がなく、テレビやCM、雑誌はこぞって彼を取り上げ、瞬く間に前園はスターダムを駆け上がった。前園は若者から圧倒的な支持を受けて多くのメディアに登場するがこの時から少しずつ歯車が狂い始めていたのかもしれない。

日本人初のスペインリーグ挑戦、1998年のフランスワールドカップ、そして2002年の自国開催のワールドカップ出場。残念ながら前園真聖はそのいずれも手にすることは出来なかった。

面白いように抜いていたドリブルも影を潜めて相手に倒されるシーンが増える。鮮やかなスルーパスも容易にカットされてしまう。腰に手をついて宙を見つめる時間が増えていく。なにより彼を覆っていた圧倒的な「光」が急激に色褪せていった。かつて天才と拝められた男はもがき苦しみ、やがて31歳の若さでユニフォームを脱ぐ。

あの頃の前園が過度な光を帯びていたのか。それとも時代やマスコミが作り上げた虚像の光だったのか。

いずれにしろ我々は異様なほど眩しい光の中にいる彼を見ていた。

前園真聖のJリーグ入り前


前園は1973年に鹿児島県薩摩郡東郷町(現:薩摩川内市)で生まれた。

幼い頃から4歳年上の兄の影響でサッカーに慣れ親しみ、小学2年生の時に東郷少年サッカー団に入団する。幼い頃に見た1982年W杯でのマラドーナのプレーに衝撃を受け、ビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れていたという。当時まだ日本にプロがなかったためブラジルでプロ選手になるという夢を持つほどサッカーにのめり込んでいった。

小学校卒業後、東郷中学校に進学。当時中学校にサッカー部がなく陸上部に在籍するが2年生の時にサッカー部が出来たため転部。持ち前の実力で3年生で鹿児島県選抜にも選ばれ九州大会優勝を果たす。

卒業後、鹿児島実業高校へ進学。同学年には遠藤三兄弟の長男・遠藤拓哉や藤山竜仁、仁田尾博幸、2学年下には城彰二、遠藤彰弘がいた。

前園は1年時からレギュラーとして活躍。3年連続で選手権に出場する。2年時に出場した全国高校サッカー選手権大会では中心選手として活躍。チームも接戦を次々とモノにし決勝に進出。国見高校に敗れるが準優勝を収めた。

高校3年時にスカウトを受けると卒業後、前園は1992年に横浜フリューゲルスへ入団する。

前園真聖のJリーグ入り後

前園は加茂周監督が目指すゾーンプレスサッカーへの適応がなかなかできずサテライトチームで過ごす。サッカーでも生活面でも自信を失いモチベーションが下がっていた矢先、Jリーグ開幕前に2ヶ月間アルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタへ短期留学するとになる。現地での生活は前園の今までのサッカーへの考え方を変えるきっかけになったという。

1993年6月5日第7節ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)戦延長後半4分から途中出場。Jリーグデビューを果たす。この年、前園は24試合出場2得点、第73回天皇杯決勝に先発出場するなどの活躍を見せた。

1994年、1995年は主軸として活躍。

翌1996年にはブラジルトリオ(ジーニョ、サンパイオ、エバイール)や山口素弘三浦淳宏らと共に開幕からチームの8連勝に貢献。この年のベストイレブンにも選出された。同年アトランタオリンピックにキャプテンとして出場。

グループリーグD組第1戦のブラジル代表戦ではブラジルがシュート28本、日本4本という一方的な試合展開であったが、1点差を守り抜き勝利を収める。試合に勝ったものの前園は世界との力の差を痛感し海外での戦いを意識するようになる。

この頃、前園にスペインリーグのセビージャを含む数チームからオファーが届く。前園自身も海外移籍に前向きだったが当時の日本には代理人システムが整っておらず、また日本人の海外移籍の前例もほとんどなかった為、交渉はうまくいかなかった。

前園は欧州移籍を断念し、1997年にヴェルディ川崎に移籍。移籍金は当時の日本人のサッカー選手として過去最高となる3億4000万円といわれてる。

背番号7をつけた前園は新戦力として期待されるが次第に精彩を欠いていく。1stステージ6位、2ndステージ12位という散々な成績に終わり、高年俸の前園はこの失墜の矢面に立たされるようになった。同年、日本代表はジョホールバルで初のワールドカップ出場を決める。アトランタオリンピックで共に戦った中田英寿や川口能活、城彰二などが活躍して手に入れた切符だった。

前園はその後も調子が上がらず、スタメンを外れるようになる。シーズン終盤に3ヵ月間のレンタル移籍でブラジルの名門クラブ、サントスFCに加入する。

サントスではポルトゲーザとのデビュー戦でゴールを決める。その後も途中出場を続けるがスタメンで起用はされずサントスへのレンタル期限が終了。その後は5ヶ月契約でブラジルのゴイアスへ移籍。ゴイアスでは背番号10を背負い、序盤はスタメンで出場していたが監督の方針で若手が多く起用されるようになり徐々に出場機会を失っていく。

ゴアイス退団後は欧州に渡り、ポルトガルやギリシャのクラブの入団テストを受けるも契約はまとまらず2000年に帰国。J2の湘南ベルマーレへ加入した。

ベルマーレではブランクに苦しみながらも徐々に試合勘を取り戻しリーグ戦38試合に出場し11ゴールをマーク。全盛期からは遠く及ばなかったが復活の片鱗をみせた。

2001年、東京ヴェルディへ復帰。

しかし1stステージは出場の機会が少なかった。2ndステージ第5節横浜F・マリノス戦の前半35分、ゴール前への飛び出しから先制点を奪った際、横浜FMのGK川口能活との接触を避けようと引いた左足がピッチに引っ掛かり足首を骨折。この故障によりこのシーズンと翌年の2002年を棒に振ることになり、結果的にこの試合が前園のJリーグ最後の試合となった。

2003年に韓国・安養LGチータースへ移籍。序盤はコンスタントに出場するもシーズン終盤はベンチ入りメンバーからも外れるようになった。

2004年には韓国の仁川ユナイテッドFCに移籍。カップ戦を中心に起用される。8月1日のFCソウル戦ではPKで韓国初ゴールを決める。しかしその後は左足薬指の骨折により3ヵ月以上戦線離脱。2004年末に契約解除となった。

前園はその後、国内復帰も視野にいれていたが獲得チームは現れず、2005年5月19日に引退を表明した。31での決断だった。

前園真聖の引退後と現在

前園は引退後、テレビ解説者として活躍。

2013年には暴行容疑で逮捕されるなどしたがその後復帰を果たしている。サッカー番組以外でもバラエティ番組に多数出演。飾らない人柄が受け入れられ高い人気を得ている。

前園は自身のキャリアを振り返って唯一の心残りはスペインへの移籍が実現しなかったことだと語っている。人気も実力も絶頂期にあった当時の前園は紛れもなく日本のトップ選手であり、サッカー後進国であった日本から世界の主要リーグで活躍する選手が登場するかもしれないという報道はたとえサッカーファンでなくとも期待せざるを得ない出来事だった。

もし移籍が実現していたとしてもどうなっていたかは分からない。語学や生活環境の対応に苦しんで試合に出場することすら出来なかったかもしれないし前園のモチベーションが上がり更なる進化を遂げたかもしれない。

どのような結果が待っていたか分からないが、その過程と結末を一番見たかったのは前園本人であっただろう。

 

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