DF

内舘秀樹の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第83回】

Jリーグデビューした1996年から引退した2009年までの13年間を浦和レッズで活躍したワンクラブマン。

内舘秀樹は180センチ、65キロという決して強靭ではない体格ながら対人プレーに強く、長年に渡って浦和レッズのDFを支えた。

センターバックはもちろん、サイドバック、ボランチなど守備的ポジションはどこでも出来るのも内舘秀樹の持ち味で、2007年にはさいたまシティカップ・マンチェスター・ユナイテッド戦で先制点となる強烈な無回転シュートを決めるなど意表をつくミドルシュートも得意だ。

 浦和レッズのウッチーこと、内舘秀樹に迫る。

内舘秀樹のプロ入り前


内舘は1974年に埼玉県浦和市(現さいたま市桜区)に生まれた。

小学校時代は 西浦和サッカースポーツ少年団に所属しサッカーを学んだ。

中学校は浦和市立田島中学校へ進学。田島中学校では内舘の一学年下に阿部敏之と室井市衛がいた。この3人は「田島中トリオ」と呼ばれ、後に浦和レッズでも共にプレーをすることになる。
内舘はその後、埼玉県立浦和北高校へ進む。

強豪揃いの埼玉県内では勝ち抜くことは出来ず全国高校サッカー選手権の出場は叶わなかった。
高校を卒業後、内舘は仙台大学へ進学する。

大学4年次の1995年。内舘はユニバーシアード日本代表に選出。

東北の大学からは内舘のみが選出され、斉藤俊秀望月重良、山田卓也などと共に戦った。

決勝まで勝ち進んだ日本は韓国を2-0で破り、念願の初優勝を成し遂げた。

この活躍が認められ、内舘は大学卒業後の1996年に浦和レッズに入団する。

内舘秀樹のプロ入り後

内舘は左右のサイドバックをどちらでも高いレベルでこなせる為、入団直後から一定の評価を得る。

しかし当時の浦和のサイドバックには山田暢久、杉山弘一、城定信次らがおりレギュラーを獲得するまでには至らなかった。ルーキーイヤーはリーグ戦5試合の出場に留まる。

そんな内舘にとって、転機になったのは、2002年のオフト監督の就任の時。

内舘はオフト監督からレギュラーに抜擢される。

サイドバックとしてスピードとマンマークに絶対の自信があった内舘は井原正巳、坪井慶介と3バックを形成。

内舘と同じくスピードに優れた坪井慶介と相手選手をどこまでも追い回し、その後ろで井原がカバーする浦和のディフェンス陣は相手チームにとって脅威となった。

このシーズン、内舘は初のリーグ戦30試合出場を果たす。2ndステージの第4節柏レイソル戦ではJ1初ゴールもマークした。

翌年の2003年にはキャプテンに就任し、レッズを牽引。鈴木啓太とドイスボランチを組み、堅実なプレーで攻守のバランスを取った。

この年、浦和はチーム初タイトルであるナビスコカップを獲得。内舘はキャプテンとしてカップを掲げた。

しかし翌年の2004年。監督に就任したブッフバルトは、内舘ではなく長谷部誠をスタメンに起用。内舘はベンチスタートが多くなったが、元々どのポジションもこなせるユーティリティ性が持ち味でもあった内舘は貴重なバックアッパーとして活躍。

2006年シーズン終盤はレギュラーのDFだった坪井慶介、堀之内聖が相次いで故障で離脱した影響でディフェンスラインに入り、初のJリーグ優勝に貢献した。

2007年にはリーグ戦の出場機会が減少していたものの、7月17日に埼玉スタジアムで行われたさいたまシティカップ・マンチェスター・ユナイテッド戦で先制点となる強烈な無回転ミドルシュートを決める。内舘は存在を示した。

その後は細貝萌の台頭もあり、2008年にはリーグ戦出場が3試合に留まり、この年限りで引退を表明した。

内舘秀樹の引退後と現在

内舘は引退後、2009年からは浦和の広報部スタッフに転身した。

2013年からはレッズのジュニアコーチやジュニアアカデミーでの指導に忙しい毎日を送っている。

内舘は現役時代、様々なポジションで起用された。レギュラーとしてフル稼働したシーズンは多くはなかったが、それでも選手層の厚いレッズにおいて13年間在籍し、リーグ戦220試合出場したというのは立派な数字だ。

ピッチの上で浦和のサポーターに愛されたウッチーは、今後は指導者としてチームに貢献し続ける。

選手一覧