Jリーグ通算85試合出場64得点という強烈なインパクトを残したワシントン。
ブラジル全国選手権1部の得点記録を塗り替えて得点王に輝いた実績を買われ、日本の地を踏んだワシントンはペナルティエリア内で無類の強さを発揮した。
190センチの強靭な肉体はさることながら、特筆すべきはポジショニングの良さである。
パワーに頼る事なく相手マークを巧みに外すと洗練された足元の技術で幾度となくゴールを沈めた。
ただ大きいだけではなかった。
強くて、しなやかで絶妙だった。
Jリーグには居なかったタイプのストライカー、ワシントンの出現に、各チームは対策に追われる事となった。
ワシントンのJリーグ入り前
14歳の時に地元のクラブであるブラジリアのユースに所属する。
途中、リオ・グランデスル州のユースチームで2年間プレーし、18歳の時にカシアスとプロ契約を結んだ。
早くからセンターフォワードで起用され、20歳の時にはレギュラーとして出場するようになる。
しかし1996年、21歳の時に1型糖尿病である事が発覚する。
以降、ワシントンは定期的な検査を受けながらインスリンを服用してプレーする生活をする事になる。
1997年ブラジル1部リーグのインテルナシオナルへ移籍。ブラジルカップで3得点を挙げる活躍を見せ、同リーグの強豪グレミオへ移籍する。
しかしグレミオでは目立った活躍は出来ず、その後はポンチ・プレッタ、古巣のカシアス、パラナと移籍を繰り返した。
2000年にはポンチ・プレッタで12ゴールを決めブラジルカップ得点王に輝いた。
2001年にはブラジル代表に選出。
日本で開催されたコンフェデレーションズカップに出場しカメルーン戦でゴールを決めた。
2002年、トルコリーグの名門フェネルバフチェへ移籍。移籍金は9億4000万円、3年契約での加入だった。
フェネルバフチェではリーグ戦12試合に出場し9ゴールを挙げ、トルコリーグを代表するストライカーとして名を馳せるが、ワシントンにまた悲劇が襲う。
胸痛を訴え、トルコの病院で検査を受けたワシントンの心臓に異常が見つかったのだ。
ワシントンは手術を受け、症状は回復に向かうもフェネルバフチェとの契約は切れた。
2003-2004シーズン、ワシントンはブラジルへ帰国しアトレチコ・パラナエンセと契約を結ぶ。
パラナエンセでは病気の事もあり、リハビリも兼ねて半年間無給でトレーニングに励んだ。
その後、病状は回復し2004年1月にトップチームに昇格。
長らくピッチから離れていたワシントンは覚醒する。
リーグ戦38試合に出場し34得点を挙げ、全国選手権の得点王に輝いた。2位に12得点差をつける圧倒的な得点力だった。
この活躍を受け、Jリーグのガンバ大阪、セレッソ大阪、東京ヴェルディ、スペインのセルタ、ギリシャのパナシナイコス、イタリアのフィオレンティーナなどがワシントンへオファーを出したと言われている。
ワシントンの代理人はかつてJリーグでも活躍したジルマールだった。
争奪戦の末、ワシントンはJリーグの東京ヴェルディへの入団を決意。
ブラジル誌によると年俸は2億円といわれており、ビッグプレーヤーのJリーグ入団に報道も加熱した。
ワシントンのJリーグ入り後
Jリーグ開幕前の2005年ゼロックススーパーカップでデビューを果たす。
ここでワシントンは前年度年間チャンピオンの横浜Fマリノスを相手に2得点を挙げ、優勝に貢献した。
Jリーグ開幕後も、センターフォワードに陣取ったワシントンは圧倒的なパワーと足元の正確な技術で得点を重ねていく。
ワシントンはこの時年齢29歳と選手としてピークを迎えており、ワールドクラスといわれた相手選手を背負っての切り返しや絶妙なポジショニングで、リーグ戦33試合に出場して22得点を挙げ得点ランキング2位に入る活躍を見せた。
しかし東京ヴェルディは歯車が噛み合わずに勝ちきれない試合が続いた。
DF陣が崩壊し、立て直せずに失点が重なっていく。
また絶対的エースとなったワシントンにボールを集める単調なゲーム運びは相手チームからも研究され、後半戦は点が取れない試合が続いた。
ヴェルディはこの状況を打破すべく元ブラジル代表MFジウをシーズン途中に獲得するも、状況は上向く事はなくヴェルディのJ2降格が決定する。
Jリーグ開幕前には天皇杯を制し、ゼロックススーパーカップでも優勝を決めたヴェルディの降格は衝撃を与えた。
ワシントンはこのシーズン限りでヴェルディを離れ、浦和レッズへ移籍。
ギド・ブッフバルト監督の元でワシントンは1トップとして起用され、トップ下のポンテや小野伸二という協力なパサーの力を得て得点を重ねていく。
特にワシントンとポンテのホットラインは強力であり、その破壊力の高さにブッフバルト監督は攻撃の全権をこの2人に委ねた程だった。
ワシントンはリーグ戦26試合で26得点という驚異的な得点を挙げ、浦和レッズのリーグ優勝に貢献した。
浦和はアジアチャンピオンズリーグでも優勝を果たし、クラブワールドカップでワシントンは得点王となり浦和に世界3位の称号を与えた。
2007年も活躍が期待されたが、監督がブッフバルトからオジェックに代わると起用法を巡り度々衝突した。
相手チームの研究も進み、前年度のような活躍はできなくなったが、それでもリーグ戦26試合に出場し16得点を挙げた。
ワシントンはこのシーズン限りで浦和を退団。
ブラジルに帰国しフルミネンセと契約を結び、2度目のブラジル全国選手権得点王に輝いた。
その後は2009年にサンパウロに移籍し2010年には再びフルミネンセでプレー。
兼ねてから問題のあった心臓の病気の為にこのシーズン限りで現役を退いている。
ワシントンの引退後と現在
ワシントンは引退後、建設業を営む実業家に転身。
2011年9月には民主労働党に加わり、2012年10月のカシアス・ド・スル市議会議員選挙で当選を果たすなど政治家としても活躍している。
ワシントンは現役時代、糖尿病や心臓疾患によって早期引退の危機に陥りながらも懸命なリハビリを経て復活した。
この事から浦和レッズサポーターはワシントンがゴールを決める度に日本心臓財団に寄付をする企画をスタートさせたのは有名な話だ。
この活動は瞬く間に賛同者が集まり、最終的に100万円を超える額が日本心臓財団へ寄付された。
この活動を受けて財団はワシントンの元へ感謝状を送るも、この活動を本人は全く知らなかったという。
ワシントンは詳細を聞くと涙を流して喜び、サポーターに感謝したという。
ワシントンがゴール後に心臓のある左胸を叩くパフォーマンスは今ここに生きている証を再確認するものだったのであろう。
ワシントンの生き様は多くの人に感動と勇気を与えたに違いない。