1993年、最下位に低迷する浦和レッズを救うべく西ドイツからやってきた攻撃的MF、ミヒャエル・ルンメニゲ。
バロンドールを2回受賞し、ミスターヨーロッパと呼ばれた偉大な兄、カールハインツ・ルンメニゲを彷彿させるような正確なプレーで奮闘した。
背番号は主に10を背負い、1994年にはチームトップの11得点をマークするなど活躍。
特に1994年8月17日のNICOSシリーズ第3節ジェフ市原戦ではワンタッチでDF2人を抜き去り、右のアウトサイドで沈めたゴールや第9節のベルマーレ平塚戦で見せたバイシクルシュートは現在でもメデイアから紹介されるなどルンメニゲは印象的なゴールを生んだ。
ブンデスリーガで300試合以上戦ったルンメニゲはJリーグでも格の違いを見せた。
ルンメニゲのJリーグ入り前
ルンメニゲは1964年にドイツのリップシュタットに生まれた。
プロ入り前はドイツの名門であるバイエルン・ミュンヘンユースに所属。
1981年、ルンメニゲが17歳の時にSBS静岡放送主催のSBSカップで来日。
ルンメニゲはバイエルンユースのFWとしてプレーし、バイエルンユースの優勝に貢献。
この大会には全日本ジュニアユース選抜、静岡県選抜も出場しており、長谷川健太、堀池巧、大榎克己、三浦泰年、反町康治など未来の日本代表選手も多く出場している。
1982年にはバイエルンのトップチームに昇格。兄であるカールハインツ・ルンメニゲと共にプレーをした。
入団1年目はリーグ戦1試合のみの出場に留まるが2年目には早くも開花。
ルンメニゲはリーグ戦33試合に出場し11得点を挙げた。
尚、兄のカールハインツはこの年26得点を挙げ3度目の得点王を獲得している。
ルンメニゲ兄弟はその後もバイエルンの攻撃の中心として活躍。
1984年8月に兄カールハインツはイタリアセリエAのインテルミラノへ移籍するも、弟ミヒャエルはバイエルンに残留し、1987-1988シーズンまでプレーした。
1983年、ルンメニゲは西ドイツ代表にも選出され、同年10月のトルコ戦で代表デビューを果たすも当時の西ドイツ代表は世界1、2を争う程の強豪チームで層が厚かった事もあり代表には定着出来ずに2試合の出場に留まった。
1988-1989シーズンは同じブンデスリーガのボルシア・ドルトムントへ移籍。
ルンメニゲはドルトムントでもすぐにレギュラーに定着。
加入年にDFBカップ(ドイツ杯)獲得に貢献すると、加入4年目には36試合に出場し10得点を挙げた。
ボルシア・ドルトムントには5年半在籍し、ブンデスリーガではリーグ戦309試合に出場し80得点を挙げるなどブンデスリーガを代表する選手となっていたが、28歳という年齢でキャリア晩年に差し掛かった事もあり移籍を決意。
誕生したばかりのJリーグの浦和レッズからオファーを受け1993年の8月に初めてとなる海外移籍を果たす。
ルンメニゲのJリーグ入り後
1993年11月6日の第10節横浜マリノス戦でJリーグデビュー。
Jリーグシーズン途中での加入だったが、すぐに浦和レッズの司令塔としてレギュラーに定着。
しかし浦和レッズはルンメニゲを擁していても勝ちきれない試合が続き、10チーム中最下位でシーズンを終えた。
この年、浦和は元ドイツ代表として14試合のキャリアをもつFWラーン、元アルゼンチン代表のFWフェレイラ、アルゼンチン人のMFモラレスなど攻撃的ポジションの外国人選手を多く獲得するがいずれもJリーグにはフィットせず、結果的に活躍したのはルンメニゲのみだった。
1994年、ルンメニゲは元ドイツ代表のバインやブッフバルトと共に主軸として活躍。
元チェコ代表のFWルルとのコンビでゴールを量産した。
ルンメニゲは運動量は多くなかったが、ボールの出し手としては勿論のこと、受け手としても優秀で、サイドに開いてワイドに展開する攻撃の起点となったり、ゴール前でワンタッチで決めるなどシーズンを通して得点源として活躍した。
この年、浦和の絶対的エース福田正博が怪我の為にシーズン5得点と不調に陥ったが、佐藤慶明の9得点、ルルの8得点を凌ぐチームトップの11得点を挙げた。
1995年も活躍が期待されたが怪我の為にリーグ戦9試合の出場に留まりこの年限りで現役を引退した。
Jリーグでは3シーズンのプレーでリーグ戦42試合に出場し13得点の成績だった。
ルンメニゲの引退後と現在
ルンメニゲは引退後、ドイツでユルゲン・ホルツェック、ヴォルフガング・グローべとともにミヒャエル・ルメ二ゲサッカースクールを創立。実業家として活動している。
1993年当時、巷ではルンメニゲ入団と聞き、兄のカールハインツが入団すると思った人も多い。
しかし偉大な兄とまではいかなくとも、ブンデスリーガでしっかりとしたキャリアを積んで28歳という年齢でJリーグに参戦したルンメニゲは、助っ人外国人の名に相応しい活躍を見せた。
ルンメニゲが退団後の1996年シーズンから浦和の成績は向上していくが、ルンメニゲはその礎を築いた貴重な選手と言えるだろう。