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ペレイラの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第130回】

この男がいなければヴェルディ川崎のJリーグ2連覇はあり得なかったであろう。

ルイス・カルロス・ペレイラ。

ブラジルからキャリア晩年にやってきたペレイラは優れたカバーリングとスター軍団をまとめる統率力で緑の壁となって立ちはだかった。

DF能力だけでなく、フリーキックで直接ゴールを決める事も出来るペレイラの存在に苦しめられたチームは多いだろう。

1994年にはラモス瑠偉やビスマルク、アルシンド、ディアスなどの攻撃的なスター選手を押しのけてDFのペレイラがMVPを受賞する程だった。

ペレイラのJリーグ入り前


ペレイラは1960年にブラジルのサンパウロ州に生まれた。

幼少期は特にクラブチームには所属せずに地元の仲間達とのストリートサッカーで覚えたという。

サンパウロ州のイトゥアーノFCなどでキャリアを積み、1990年にカンピーナスに本拠地を置くグアラニFCに所属。

ペレイラは屈強なセンターバックとしてグアラニで活躍し、ブラジル国内での評価も高かった。

ペレイラの活躍もありグアラニは1990年にはセリエB(2部リーグ)3位、1991年には2位でセリエAへ昇格を果たしている。

1991年には柏レイソルやヴィッセル神戸で監督を務めたネルシーニョがグアラニの監督に就任。ネルシーニョとは後にヴェルディ川崎で共に戦うことになる。

1992年、Jリーグが誕生する前年、ヴェルディ川崎からオファーを受ける。

ブラジルの英雄であるジーコが日本の地でプロ化に向けて懸命にプレーする姿に刺激を受け、ペレイラはヴェルディ川崎への入団を決意する。

ペレイラのJリーグ入り後

ペレイラは来日時31歳であり、既にキャリア晩年に差し掛かっていたがJリーグ前年に行われたJリーグカップでは決勝で清水エスパルスを下しヴェルディの優勝に貢献。

1993年、Jリーグが開幕すると日本代表キャプテンの柱谷哲二とセンターバックを組む。

1993年のヴェルディはJリーグ史上最も華やかなチームのひとつであり、三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪武田修宏など日本代表選手がスタメンに顔を揃え、誕生したばかりのJリーグを圧倒的な強さで制覇。ヴェルディはJリーグ初代チャンピオンに輝いた。

当時のヴェルディは日本代表の選手以外にも、オランダ人選手のロッサム、マイヤー、ハンセン、ブラジル人選手のパウロ、ビスマルク、パウリーニョ、アモローゾなど多くの外国人選手がいた。

指揮官である松木安太郎はそれまでの個人技を生かす南米スタイルから組織プレーを重視するオランダスタイルへの方向転換を狙うが、選手間やフロントとの間で軋轢を生み、ベテラン加藤久が清水エスパルスへ移籍するなど華々しい舞台の裏で度々衝突が起きた。

ペレイラのパートナーも柱谷哲二からロッサム、ルーキーの廣長優志、ハンセン、林健太郎など変わっていくが、ペレイラは不動のセンターバックとして君臨した。

フリーキックも得意で1994年9月17日のNICOSシリーズ浦和レッズ戦ではペナルティエリアから遠く離れた位置からゴール右隅に決めた。

DF面でも、相手選手がGKを抜いても必ずペレイラがカバーリングし無人のゴールに立ちはだかりシュートを跳ね返すシーンもしばしば見受けられた。

1994年、ヴェルディはナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝を達成。

ペレイラ自身も2年連続ベストイレブン選出、外国人選手初となる最優秀選手賞を受賞した。

1995年もサントリーシリーズ2位、ニコスシリーズ優勝とヴェルディは強さを見せた。

ペレイラもシーズン50試合に出場し6得点を挙げるなど健在だったが、ヴェルディはチャンピオンシップで横浜マリノスに敗れ、年間優勝を
逃す。

ペレイラはこの年限りでヴェルディを退団。

日本でのプレーを望んでいたペレイラはJFLのコンサドーレ札幌へ入団。

コンサドーレでは背番号0を背負い、ヴェルディで共にプレーしたアルシンドとともに若いチームを牽引した。

得点も計算できる守備の要として開幕からレギュラーとして活躍をするが第20節本田技研戦で負傷退場。

ペレイラを失ったコンサドーレは以降、第23節鳥栖戦と第24節東京ガス戦に連敗してしまいJリーグ昇格ができる2位以内が絶望的となり5位の成績でシーズンを終えた。

1997年は3バックの真ん中でプレーする事が多く、ディエゴ・マラドーナやバルデスらと共に活躍。

コンサドーレは26勝4敗(全16チーム)でホーム無敗の成績でJFL優勝、Jリーグ昇格を果たした。

1998年はJリーグでのプレーとなり、序盤はスタメンで出場していたが年齢からくる衰えと怪我によりその後は出番が減っていく。

シーズンを通して11試合の出場に留まり、このシーズン限りで現役を引退した。

ペレイラの引退後と現在

ペレイラは引退後、ブラジルに帰国しサンパウロ州イトゥーにある「CENTRO ESPORTIVO PÉ DE MOLEQUE (セン トロ・エスポルティボ・ペ・デ・モレッキ)」で、育成カテゴリーの指導者として活躍している。

尚、 イトゥー市スポーツ局の一員として働いており、児童福祉活動の一環でもあるサッカー普及に貢献中だ。

ペレイラはJリーグでマッチアップした選手の中で最も苦労したストライカーにジュビロ磐田のスキラッチ(元イタリア代表、1990ワールドカップ得点王)を挙げている。

マリーシア(ずる賢さ)に長けており、激しく当たった際には必ず挑発してきたとのこと。

日本人選手は口論になっても、マリーシアを仕掛けてくる選手は居なかったとペレイラは話す。

日本人選手は素直すぎると話す外国人選手は多い。

サッカー王国ブラジルではマリーシアを「豊富な人生経験を経て身につけた知恵」と定義している。

ジュビロ磐田でプレーしブラジル代表のキャプテンを務めたドゥンガも「日本代表はテクニックもスピードも申し分ない。足りないのはずる賢さだ。」と話したことがある。

日本でも試合終盤の時間稼ぎや、意図的に転倒する演技などでPKを獲得する場面もしばしば見られるが、マリーシアの本場であるブラジル人から見たらまだ物足りなく映るのであろう。

勝負を仕掛ける上で更に一歩優位に立つにはマリーシアの習得も必要かもしれない。

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