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ディド・ハーフナーの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【286回】

安定したキャッチング能力に加え、的確なコーチングで活躍したJリーグ創世記を代表するGKディド・ハーフナー。

オランダから来日後、マツダ(現サンフレッチェ広島)、名古屋グランパス、ジュビロ磐田でコーチ兼任選手としてプレー。総合能力が高く、未だ発展途上であった日本のGKの良き見本となった。

現役晩年に所属したコンサドーレ札幌では選手のみに専念。JFLのベストイレブン、ベストゴールキーパーに選出されコンサドーレのJリーグ昇格に大きく貢献した。

1993年には日本代表のGKコーチも兼任。ドーハの悲劇が起きたイラン戦では試合への出場資格が無いにも関わらずベンチではずっとキーパーグローブを装着。選手達と共に戦う姿勢を見せていた。

ディド・ハーフナーのJリーグ入り前


ディドは1957年にオランダの南ホラント州ラインヴァウデに生まれた。

8歳の時にサッカーを始め、地元の「ハーツズクルツ・ボーイズ」に入団。欧州ではゴールキーパーの人気が高く、ディドもキーパーとしてプレーする。

1979年、19歳の時にオランダのADOデン・ハーグでプロキャリアをスタート。PSV戦でデビューを飾る。デンハーグには6シーズン在籍しリーグ戦80試合を戦った。オランダではU23代表にも選出されている。

1985年、U23代表時代のコーチであったハンス・オフトから力を貸してほしいと連絡を受ける。その頃オフトはJSL(日本サッカーリーグ)のマツダ(現サンフレッチェ広島)でヘッドコーチを務めていた。オフトからのオファーはコーチ兼任選手というものだった。

来日したディドはオランダとの環境の違いに驚きながらも日本の地で新たな生活を始めることを決める。1986-1987シーズンにJSLで日本デビューをするとその年のベストイレブンに選出。

1989年からは読売クラブ(現東京ヴェルディ)でプレー。

1991年にトヨタ(現名古屋グランパス)のコーチに就任。一度現役を引退したがJリーグ開幕前年の1992年に現役復帰。Jリーグカップ9試合に出場を果たし準決勝に進出するも清水エスパルスに0-1で敗れている。

1993年にはオフト監督率いる日本代表のGKコーチに就任。アジア最終予選に帯同しドーハの悲劇もベンチで体験している。

1993年、Jリーグが開幕。ディドは名古屋グランパスエイトでJリーガーとなった。

ディド・ハーフナーのJリーグ入り後

1993年当時のJリーグは外国人枠が3人だった為、出場機会が限られた。

開幕当初の名古屋にはジョルジーニョ、ピッタ、ガルサが在籍しておりディドは枠から漏れることとなり伊藤裕二が正GKを務めた。6月2日のサンフレッチェ広島戦でJリーグデビュー。この年はディドがリーグ戦19試合、伊藤が17試合に出場した。

ディドは1993年4月に日本に帰化することを決意。1994年1月に無事帰化が認められた。

1995年にはオフトから誘いを受けジュビロ磐田へコーチ兼任で移籍。

1995年はリーグ戦52試合全試合に出場を果たす。

1997年にJFLのコンサドーレ札幌へ移籍。選手専業でのプレーとなった。 札幌では元JリーグMVPのペレイラと鉄壁の守備を誇り、リーグ戦26勝4敗の成績で優勝。J1昇格を果たす。ディドはベストイレブンとベストGK賞を受賞した。

1998年、再びJリーグの舞台に戻ってくるもJリーグでは苦戦し、下位に低迷。J1参入戦で札幌は4連敗を喫して、Jリーグ史上初のJ2リーグへの降格チームとなった。ディドはこの年をもって現役を引退した。

ディド・ハーフナーの引退後と現在

ディドは1998年に選手として完全に引退後、1999年からコンサドーレ札幌のGKに就任。

その後はマリノス、流通経済大学、名古屋グランパス、清水エスパルス、そして韓国の水原三星ブルーウィングスのGKコーチを務めた。 2014年からは母国オランダでピッチに用いる芝生の管理、造成に携わっている。

今では息子のハーフナー・マイクの方が有名になったが、ディドはJリーグ創世記を代表する偉大なGKだ。

ディドがオフト監督に誘われて日本にやってきたのは1986年の事だから、もう33年も前のことになる。当時の日本はサッカーをする環境が整っておらず、オランダとのギャップにディドは驚いたという。GKのレベルも今とは比較にならないほど低いものだった。 ディドはコーチ兼任で選手としてプレーし、日本のGKにその技術と闘う姿勢を背中で見せた。その後、日本代表GKコーチとなり、あのドーハの悲劇もベンチで体験した。

ディドはJリーグ開幕後の1994年に家族全員で日本に帰化。マイクが2006年にJリーグのピッチを踏んでいるから、ディドが来日して20年目に初の日本人親子Jリーガーが誕生したことになる。

今では世界を舞台に戦うGKも誕生し日本のGKのレベルは格段に上がった。ワールドカップにも当然のように出場するようになった日本を33年前のディドは想像していただろうか。あの時、ディドがコーチとしてではなく選手兼任で来日した事は日本サッカーの発展において非常に大きい意味がある。

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