”野獣”というニックネームがつくほど、ピッチ内外でのトラブルも多かったFW・エジムンド。
若かりし頃から気性が荒く、ブラジル時代には主審を殴り120日間の出場停止処分を受け、1995年にはリオで交通事故を起こし4年の禁固刑で起訴。試合後に報道陣とケンカをしてカメラを壊し、逮捕されたこともある。
1997年にヨーロッパに渡っても、そのトラブルメーカーぶりは相変わらずで、チームが優勝争いを演じる中、リオのカーニバルに参加する為にブラジルに帰国。多くのファンの失望を買った。
そんなエジムンドだが、凶暴な性格からは想像できないような繊細なボールタッチと、司令塔から最前線まで、どこのポジションでも高いレベルでプレーができる圧倒的な攻撃センスを持っていた。
ブラジル時代には、3度に渡ってブラジル全国州選手権のタイトルを獲得。ブラジル代表としても10ゴールを記録している。
2001年、J2降格の危機に立たされていた東京ヴェルディに、リーグ戦残り数試合という状況で加入すると、デビュー戦でゴールを決め、ヴェルディの攻撃を見事に立て直し、J1残留に大きく貢献した。
たった5試合で結果を求められるという過酷な状況であったが、野獣は見事に奇跡を起こしたのだった。
エジムンドのJリーグ入り前
エジムンドは1971年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロ州のニテロイに生まれた。
1982年にアマチュアチームでプレーを始め、ヴァスコ・ダ・ガマのユースに所属し、若干16歳でトップリーグデビューを飾ると、1991-1992年シーズンにプロ契約を果たした。
1993-1994年シーズンにはパルメイラスに移籍。この年のサンパウロ・カップ、サンパウロ州選手権、ブラジル全国選手権の3冠達成に大きく貢献した。 1995年シーズンにはフラメンゴに移籍し、ロマーリオと強力な攻撃陣を形成するが、1シーズンで退団。
1997年にヴァスコ・ダ・ガマに復帰したエジムンドは、ブラジル選手権で1試合6ゴールを決めるなど活躍。その年の得点王とMVPに輝いた。
1998年にはブラジル代表としてフランスワールドカップに出場。2試合に出場を果たすもノーゴールに終わった。
1997-98シーズン途中、セリエAのフィオレンティーナに移籍。FWバティストゥータ、MFルイ・コスタなどと強力な攻撃陣を牽引した。
フィオレンティーナは1998-1999年シーズンに、リーグ優勝争いをするほど好調だったが、エジムンドは、リオのカーニバルに参加するためにブラジルへ帰国。攻撃のキーマンを失ったフィオレンティーナは優勝争いに敗れ、エジムンドの行動は多くのサポーターを失望させた。
2000年、3度目となるヴァスコ・ダ・ガマへの復帰を果たす。
その後はサントス、イタリアのナポリ、ブラジルのクルゼイロと渡り歩く。
2001年10月、エジムンドは、J2降格の危機に陥っていた東京ヴェルディからオファーを受け入団する。
エジムンドのJリーグ入り後
エジムンドの獲得は、東京ヴェルディにとって大きな「賭け」であった。
2001年のヴェルディは、ファーストステージで僅か4勝しか挙げられず、最下位に沈んだ。小倉隆史や三浦淳宏ら元日本代表選手を獲得し、戦力的にも、元日本代表の前園真聖、菊池新吉、林健太郎、永井秀樹、武田修宏、山田卓也、中澤佑二など錚々たるメンバーが名を連ねていたが、チームの調子は上がらず6連敗を喫するなど大きく精彩を欠いていた。
セカンドステージが開幕しても、勝ちきれない試合が続き、J1になんとしてでも残留する為に獲得したのがエジムンドであった。
シーズン残り5試合での加入となったエジムンドだったが、10月31日の第11節セレッソ大阪戦でデビューを飾ると、シーズン中盤に獲得したマルキーニョスと2トップを組み、さっそくゴールを奪い、3-0での勝利に貢献した。
続く第12節ヴィッセル神戸戦でも前半17分に先制ゴールを奪い、引き分けに持ち込むと、第13節ガンバ大阪戦では勝利に貢献した。しかし第14節鹿島アントラーズでは0-4で大敗。この時点で、既にセレッソ大阪のJ2降格が決定していたため、最終節の結果で、13位の横浜F・マリノス、14位の東京ヴェルディ、15位のアビスパ福岡で残留を争う展開となった。
最終節はFC東京戦。試合は前半に永井秀樹がゴールを挙げ、その1点を死守したヴェルディは奇跡的な残留を遂げた。
ヴェルディの小見幸隆監督は、選手たちが動揺しないように、他会場の試合経過は伏せていたが、エジムンドは「俺にだけは教えてくれ。それによって自分はやるべきことを決める」と言ったという。見事にエジムンドは仕事をやり切り、ヴェルディは奇跡的に残留を成し遂げた。
2002年も、エジムンドはヴェルディでプレー。2ndステージには開幕戦の京都パープルサンガ戦から7試合連続でゴールを決める活躍を見せた。このシーズン、エジムンドはリーグ戦18ゴールをマーク。
2003年は浦和レッズに移籍。ハンス・オフト監督の元、新たな得点源として期待された。
3月8日のナビスコカップ・ジュビロ磐田戦で永井雄一郎と2トップを組んで先発デビューし、続くヴェルディ戦ではトップ下を務めるもチームは2連敗。トラブルメーカーとしての気性の荒さは影を潜めていたエジムンドであったが、練習方法や戦術を巡ってオフトと対立。エジムンドは不満を爆発させ、そのまま退団となった。
ブラジルに帰国後は、ヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、パルメイラスなどのクラブを転々とし、エジムンドは2008年に現役を引退した。
エジムンドの引退後と現在
エジムンドは引退後、解説者として活躍。現在はブラジル『FOXスポーツ』のコメンテーターなどを務めている。
その経歴や逸話から、問題児として悪名高いエジムンドではあるが、母国ではその自由奔放なキャラクターが受け入れられ大きな人気がある。特にプロデビューから4度の復帰を果たした名門のヴァスコ・ダ・ガマでは英雄のような扱いを受けている。
奇跡的ともいわれた2001年の東京ヴェルディの残留劇。主役は間違いなくエジムンドであっただろう。
説明するまでもなくサッカーは11人でやるスポーツであるが、たった一人が加入しただけでここまで劇的に、見違えるように蘇生したチームは非常に珍しい。
それほどまでにエジムンドの能力は突出しており、勝利へのメンタリティに優れていた選手であった。