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シモンの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第244回】

中盤の底でプレーし、ボールを刈り取る能力に長けた守備的MFシモン。

90分尽きる事のないスタミナがあり、幅広いエリアをカバーする事でチームのバランサーの役割を果たした。またチャンス時には攻撃に参加し強烈なミドルシュートでゴールを脅かした。

1995年に来日しベルマーレ平塚で3シーズンプレー。リーグ戦通算50試合に出場し10得点を記録。

ベルマーレ退団後はブラジルのチームやトルコリーグでも活躍。シモンはトルコリーグでプレーする初めてのブラジル人選手となった。

シモンのJリーグ入り前

シモンは1968年にブラジル・サンパウロ州に生まれた。

1989年、シモンが21歳の時にリオグランデ・ド・スル州カシアス・ド・スルを本拠地とするECジュペントゥージでプロキャリアをスタート。

同年、SCインテルナシオナルへ移籍。同年はボランチとしてリーグ戦15試合に出場した。インテルナシオナルでは1992年シーズン途中までプレーし、1993年に名門であるSCコリンチャンス・パウリスタへ加入する。コリンチャンスではブラジル代表リバウドと共に中盤でプレーした。

1994年にサンパウロ州に本拠地を置くポルトゥゲーザへ移籍。ここでシモンはレギュラーとして活躍しリーグ戦24試合に出場し4得点を挙げている。

1994年シーズン終了後、献身的なプレーの出来る守備的MFを探していたベルマーレ平塚からオファーが届き、移籍を決意する。

シモンのJリーグ入り後

1995年シーズンからベルマーレに加入したシモンであったが、ベルマーレには司令塔であるベッチーニョ、カバーリングに優れたエジソン、元ブラジル代表のストライカーであるアウミールが在籍しており、外国人枠の都合でベンチ入り出来ない日々が続いた。

1995年6月28日1stステージ第20節セレッソ大阪戦でJリーグデビュー。この試合は1-5で大敗したものの、この試合以降シモンはスタメンで起用されるようになった。

ヘッドコーチのニカノールは中田英寿をセンターに配置し、シモン、田坂和昭、エジソンという守備力に優れた3人を中盤の底に置くスリーボランチを採用。このシステムによりチームのキープ力が安定し1stステージでは全チーム最多の60得点を挙げるまでになった。

2ndステージではベルマーレは不調に陥り勝ちきれない試合が続いたが、シモンは安定したパフォーマンスを見せレギュラーとして活躍した。

1996年はエジソンが退団したが、ベッチーニョ、アウミール、新外国人のDFルイス、FWパウリーニョと外国人枠を争う形となった。リーグ戦は15試合の出場に留まったがナビスコ杯では主力としてプレー。15試合に出場し、ベルマーレのベスト4入りの原動力となった。

1997年は開幕戦こそ途中出場を果たしたものの、その後はベンチ入りすら出来ない試合が続いた。しかしシーズン終盤にはレギュラーに復帰。9月13日の2ndステージ第12節セレッソ大阪戦では2ゴールを決め、5-4での勝利に貢献している。その後も最終戦まで出場を続けるもこの年限りでベルマーレ平塚を退団する。

ベルマーレを退団したシモンはブラジルに帰国。古巣であるポルトゥゲーザに復帰する。ポルトゥゲーザで3シーズンプレーし、2001年にサンカエターノへ移籍。サンカエターノでは平塚時代の同僚であるアウミールや柏レイソルでプレーしたミューレルと共にプレーした。シモンはこの年のブラジル選手権のベスト11に選出されている。

この活躍を受け2001年シーズン途中にトルコ1部リーグのフェネルバフチェSKへ移籍。シーズン途中の加入であったがリーグ戦10試合に出場した。

2002年は同リーグのMKEアンカラギュジュへ移籍。後にFC東京でプレーするササ・サルセードと共にプレー。

2003年からはブラジルに帰国しゴイアスと契約。主力としてプレーし、ゴイアス州選手権のタイトル獲得に貢献した。

2004年、シーズンをもって現役を引退。

シモンの引退後と現在

シモンは引退後、ブラジル国内で指導者として活躍。2016年のリオ・オリンピックでは聖火ランナーを務めている。

岩本輝雄名良橋晃という強力なサイドバックからの攻撃が持ち味だった当時のベルマーレ。オーバーラップによって空いたスペースを埋める役割を担ったボランチ・シモンの功績は大きい。

ベルマーレ平塚には3シーズンに渡って在籍し、リーグ戦50試合に出場したシモン。守備の人と思われがちだが通算10得点を記録したミドルレンジからのシュート力も魅力の選手だった。

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