頑丈な身体を武器に、ボランチやセンターバックで活躍したシジクレイ。
スピードはないもののそれをカバーして有り余るほどのフィジカルの強さがあり、守備のスペシャリストとして君臨した。
ヘディングにも強くかったシジクレイは貴重な得点源としてセットプレーでも活躍。
守備的な選手であるにもかかわらず、チーム最多得点をマークするなど得点力の高さも魅力だった。
シジクレイのJリーグ入り前
シジクレイは1972年にブラジルのパラナ州・カスカヴェルに生まれた。
父、兄、親戚がサッカー選手という家庭で生まれ育つ。
フットサルに取り組んでいたシジクレイは14歳の時にサッカーに転向。地元カスカヴェウユースに入団した。
1990年、19歳の時にブラジルの日系のクラブSEマツバラとプロ契約を交わし、以降6シーズンに渡りマツバラでプレー。
1996シーズンにアトレチコ・パラナエンセへ半年間レンタル移籍を経験。アトレチコでは主力選手として全国選手権で8位に入る活躍を見せた。
その後は再びマツバラで1年半プレーをした。
1996年12月、当時日本のJFLに所属していたモンテディオ山形よりオファーを受けて入団。
シジクレイは石崎信弘監督のもと守備的MFとして1996シーズンに22試合に出場し5得点を挙げる。
翌年のシーズンも27試合に出場し4得点を挙げ、モンテディオ山形のJFL3位に貢献。
この活躍を受け、J1の京都パープルサンガからオファーを受ける。
当時の京都は守備陣の立て直しが急務であり、ボランチやセンターバックを高いレベルでこなせるシジクレイは絶好の補強ポイントだった。
シジクレイはこのオファーを受け、1999年に京都パープルサンガに入団する。
シジクレイのJリーグ入り後
シジクレイは1999年3月6日Jリーグ第1節柏レイソル戦でJリーグデビューを果たす。
遠藤保仁とのコンビでボランチとして起用されたシジクレイは中盤に安定感をもたらした。
また、攻撃面でも4得点を挙げるなど攻守に渡って活躍し、京都パープルサンガのJ1残留に貢献した。
翌年の2000年は大分トリニータへレンタル移籍。
山形時代の恩師石崎監督の元、シーズン通してリーグ戦35試合に出場し5得点と活躍するも、大分は惜しくもJ1昇格を逃した。
翌2001年、今度はヴィッセル神戸に期限付き移籍で加入し、2002年からは完全移籍。
神戸ではボランチの他にもセンターバックを担当。シジクレイは土屋征夫、北本久仁衛と3バックを形成。
3人ともスキンヘッドというヘアスタイルだったことや、当時の日本代表がフラットスリーという3バックのシステムを採用していた事から、「ピカッとスリー」と呼ばれ人気を博した。
また、シジクレイはFWオゼアスと並んでチーム最多の6得点をマーク。翌シーズンもFW陣に次ぐ得点を挙げるなど攻守に渡り貢献した。
2004年にはガンバ大阪へ移籍。
初年度からリーグ戦30試合に出場し、西野朗監督の信頼を掴むと、翌2005年はクラブ史上初となる外国人キャプテンに任命された。
シジクレイは宮本や山口智らとともに圧倒的な強さを誇る攻撃陣を後方から支えた。
ナビスコ杯ではPK戦の末ジェフ千葉に敗れタイトルを逃したが、リーグでは大接戦の末初優勝を達成し、シジクレイにとって初のタイトル獲得となった。
翌2006シーズンも優勝争いを演じたが、最終節で浦和レッズに敗れ、連覇はならなかった。
2008年、シジクレイは9年ぶりに京都サンガに復帰。
2シーズン主力でプレーした後、ブラジルに帰国した。
ブラジルでは古巣のカスカヴェルにて兄のジャン・カルロとチームメイトになった。
主将として2012年のマットグロッソドスル州選手権に優勝。
そして2012年5月に現役引退を表明した。
シジクレイの引退後と現在
シジクレイは引退後、ブラジルのクラブチームのコーチを経験した後、2013年からガンバ大阪のコーチを2シーズン務めた。
日本のサッカーに精通し、ポルトガル語と日本語を話せるシジクレイは外国人選手にとっても非常に心強いといえるだろう。
シジクレイは現役時代、その身体能力の高さと空中戦の強さで相手チームにとって脅威であり続けた。
Jリーグでのほとんどのシーズンをレギュラーとして稼働出来たのは、シジクレイの持ち味が日本人選手に欠けている部分であり、替えがきかない選手であったからに他ならない。
13年間に渡り日本でプレー出来た事がそれをじゅうぶんに物語っている。