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大柴健二の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第51回】

浦和レッズの快速FWといえば岡野雅行だけではない。

大柴健二。

長髪をなびかせ、相手の裏を取る。

圧倒的なスピードに乗った大柴健二を止めるのは至難の業だったはずだ。

浦和レッズでは同じスタイルの岡野雅行とツートップを組む際には「野人2トップ」とよばれた。

1998年には第12節までに10ゴールを挙げ、得点ランキング3位に躍り出るなどスピードだけではないところを見せつけた。

スピードスター大柴健二に迫る。

大柴健二のプロ入り前


大柴は1973年に山梨県甲府市に生まれた。

小学校に入学後、穴切サッカー少年団でサッカーを始める。

甲府東中学校を経て、東海大甲府高等学校へ進学。

高校時代は全国的に無名であった大柴はサッカーの強豪である国士舘大学に進学。

大学卒業後の1996年に浦和レッズに入団する。

大柴健二のプロ入り後

大柴はルーキーイヤーの1996年からコンスタントに試合に出場する。

1年目は17試合に出場し3得点を記録した。

2年目は途中出場が多く、MFとしての出場も多かったものの出場時は福田正博や永井雄一郎、ベギリスタインらと絶妙な連携を見せ、その豊富な運動量と快足で多くのチャンスを演出し、29試合に出場し2得点を記録した。

そして3年目の1998年、大柴健二はブレイクする。

大柴はシーズン開幕時から得点を量産する。

第9節の柏レイソル戦ではハットトリックを決め、3-1の勝利に貢献した。

抜群のスピードで相手DFの裏へ抜け出してボールを受けると、そのまま一気にドリブルで駆け上がりゴールへ流し込む。

当時の浦和には小野伸二やベギリスタイン、広瀬治などのパサーがおり、浦和レッズが得意とするカウンターから連動して走るサッカーにおいて大柴健二の武器であるスタミナとスピードがピタリとハマった。

3年目は30試合に出場し14得点を記録。

大柴にとってこの年は日本代表候補に選ばれるなど飛躍の年となった。

しかし、翌年は攻守の歯車が噛み合わず浦和レッズはJ2へ降格してしまう。

大柴自身も出場機会が減り、18試合の出場に留まり2ゴールしか挙げられなかった。

2000年は自身初のJ2でのプレーとなったが、30試合に出場し6得点を挙げ1年での浦和レッズJ1復帰に貢献した。

2001年からはセレッソ大阪へ移籍。

背番号は9を託され、スペインへ移籍した西澤明訓に変わる得点源として期待された。

森島寛晃やルーキーの大久保嘉人と共にセレッソの攻撃陣を支え、22試合に出場し9得点を挙げる。

しかしセレッソは開幕から躓く。

開幕から7連敗、チームの得点数も7試合で5得点、失点に至っては24失点を喫するなどまさに泥沼の状態だった。

結局、この開幕時の不調が最後まで響き、セレッソ大阪はJ2へ降格した。

2002年、大柴自身は自身2度目となるJ2での戦いとなったが、シーズン途中でJ1柏レイソルへ移籍。

翌年の2003年にはJ2の横浜FCへ移籍するも満足のいく結果は残せずこの年限りで引退をした。

29歳での引退であった。

大柴健二の引退後と現在

大柴は現役引退後、サッカーから離れ不動産会社経営という新たなキャリアを築いている。

大柴のサッカー人生は長くは続かず、活躍は1998年がピークだったのかもしれない。

しかし、大柴健二のような絶対的な武器をもち、インパクトを残せるFWは今どのくらい存在しているだろうか。

Jリーグという華やかな舞台で、怪我を顧みずに身体を投げ出して貪欲にゴールを狙っていく大柴の姿は今でも鮮明に記憶に残っている。

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