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松田直樹の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第4回】

松田直樹。

この男ほど気迫に満ちた男はいないのではないだろうか。

ピッチで鬼のような形相で相手に睨みかかったと思えば

次の瞬間には天使のような微笑みでチームメイトに話しかける。

この男がいる限り、日本代表のDFはしばらく安泰だとも言われた。

享年34歳。

彼のプレーはいつまでも私たちの心に残り続ける。

松田直樹のプロ入り前


松田は1977年春、群馬県桐生市で生まれた。

兄の影響でサッカーを始めたのは小学校1年生の頃。

当時は、野球人気が全盛の時代だったが、松田はとりつかれたようにボールを追いかけることに夢中になっていた。

中学校まではFWでプレー。

当時の前橋育英高等学校監督だった山田耕介氏に、松田のDFとしての資質を見出され、DFにコンバート。

当時のU-15日本代表監督であった小嶺忠敏氏に声をかけられ、U-15日本代表に選出された。

松田はそのまま前橋育英高等学校へ進学し、メキメキと力をつけ17歳の時に飛び級でU-19日本代表にも選出。

Jクラブ争奪戦の末、横浜マリノスへ入団する。

松田直樹のプロ入り後

松田はJリーグ開幕戦からスタメンに抜擢される。

1年目からリーグ戦33試合に出場。

初年度にはマリノスで年間総合優勝も経験した。

当時のマリノスのDFは日本代表DF井原正巳小村徳男を擁しており、GKには元日本代表川口能活氏がいた。

高いレベルで揉まれることで、松田は更に成長し、成長を遂げる。

そして1996年アトランタオリンピックではマイアミの奇跡を経験する。

19歳4カ月でのオリンピック出場は、当時の日本サッカー史上最年少での五輪出場だった。

1999年には松田の代名詞ともいわれる背番号「3」を背負う。

その後、慢性的な右膝半月板の怪我を抱えながらも、マリノスで16年に渡ってプレー。

時にはDFではなく、ボランチでプレーすることも多く、劣勢時にはゴール前まで駆け上がりゴールを決めたり、GKが退場した時には代わりにグローブをつけてゴールマウスを守るときもあった。

ピッチの中を有能果敢に駆け回るその姿をみて、サポーターは彼をミスターマリノスと呼ぶようになる。

松田直樹の日本代表での活躍

松田は2000年にフル代表デビューを飾る。

当時の日本代表監督であるトルシエ氏に見込まれ、当時の日本代表キャプテン宮本恒靖中田浩二とフラットスリーを形成。

2002年日韓W杯ではすべての試合でフル出場を果たした。

日本のベスト16入りに貢献した。

監督がジーコ氏に変わっても招集され続けたが、ドイツW杯アジア最終予選のバーレーン戦でベンチ外が決まると、納得がいかなかった松田は試合前に無断帰宅してしまう。

それ以降松田は代表招集されることは無かった。

松田直樹の松本山雅での活躍

松田は突然横浜マリノスから契約非更新の通達を受ける。

試合直後に統括部長に呼び出され、突然の戦力外通告。

松田は後に「頭が真っ白になって、何かを考えられる状況ではなかった」と、そのときのことを話している。

松田はマリノスでの退団セレモニーでサポーターに語り掛ける。

「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」

ミスターマリノスはサッカーへの情熱を伝え、16年間在籍した横浜Fマリノスを退団した。

その後、数々のオファーを受けた中で松田が選択したのは当時JFLに所属する松本山雅FCだった。

日本代表にまで昇りつめた男のJFLへの移籍は当時大きな話題となった。

松田はこの移籍について「スタジアムを見て社長やGMと話して吹っ切れた。お金は関係なかった」と話している。

松本山雅では15試合に出場。1得点をあげた。

松田直樹の突然の死

それはあまりにも突然だった。

松田はチームの練習中に突然倒れ、病院に搬送された。

病名は「急性心筋梗塞」。

意識は戻ることなく、病院でそのまま息を引き取った。

松田の死は各方面で大きく取り上げられた。

松田の葬儀には多くの関係者やサポーターなどが参列し、早すぎる死を悔やんだ。

当時の国際サッカー連盟会長ゼップ・ブラッター氏は「日本代表の伝説的なディフェンダー(the legendary defender of the national team of Japan)」と評し、哀悼のメッセージを贈り、スペインの国営放送TVEではゴールデンタイムのニュース番組で松田の死を報じた。

松田が練習を行っていたグラウンドには AED(自動体外式除細動器)が設置されていなかった。

このことを取り上げた日本サッカー協会は、2012年度よりJリーグだけでなく、JFL等(Fリーグ、なでしこリーグ)に試合や練習におけるAED常備を義務付けることを決めた。

そして横浜Fマリノスは背番号「3」を永久欠番とすることを発表した。

語り継がれる「3」の系譜

心に込み上げてくるものがあった。

2011年12月、マリノスが松本山雅と対戦した天皇杯4回戦。

松田が生前、「練習試合でもいいからマリノスと戦いたい」と発言していたことを受け、松本山雅の選手全員が松田の背番号「3」入りの練習着を身にまとってピッチに現れたのだ。

スタジアムに鳴り響く松田コール。

横浜FMの試合では松田の顔が描かれた横断幕が掲げられており、日産スタジアムの試合では3ゲートに掲げられている。

こんなエピソードもある。

横浜Fマリノス時代にチームメイトだった永井秀樹は「自分が一緒にプレーした中で間違いなく最高のDF」と、松田を評価していた。

そして2017年の8月14日の永井の引退試合で、松田の長男が背番号3のユニフォームを着てプレーしたのだ。

松田直樹の残した功績は語りつくせない。

いや、語りつくす必要などない。

彼はいつまでも我々の心の中にいるのだから。

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