イタリア・セリエAのACミランから加入した本格派ストライカー。
相手を抜き去り一瞬で勝負を決めるそのプレーはまさにワールドクラスだった。
イタリア代表として1982年、1994と2大会においてワールドカップ出場、ACミランのエースとしてチャンピオンズリーグ優勝の輝かしい経歴を持つ。
シーズンを通しての得点数は多くはないが、重要な場面で得点を挙げる事が多かった為、「決勝点の男」という異名をとった。
キャリア晩年に清水エスパルスでプレー。怪我がちではあったものの経験から裏打ちされたポジショ二ングと巧みな技術でスタンドを沸かせた。
マッサーロのJリーグ入り前
マッサーロは1961年にイタリアのロンバルディア州・モンツァに生まれた。
1979年、18歳の時にセリエBの地元のクラブACモンツァでキャリアをスタートさせる。
モンツァで2シーズン過ごした後、セリエAのフィオレンティーナへ引き抜かれる。
マッサーロはすぐにレギュラーとして起用されるとリーグ戦29試合に出場する。フィオレンティーナはユベントスとの優勝争いに絡む躍進を見せた。
この活躍を受けてマッサーロは若くしてイタリア代表に選出され、1982年4月14日に行われた東ドイツ代表との国際親善試合でデビューを果たす。
同年のスペインワールドカップでは出場機会はなかったもののワールドカップ優勝メンバーの一員となった。
フィオレンティーナでは5シーズンプレー。5シーズンでリーグ戦11得点と得点数は少なかったものの、ゴール前での献身的なプレーが高く評価され1986-1987シーズンにACミランへ引き抜かれる。
ミランではサッキ監督の元、 前線から積極的にチェイスを仕掛けるゾーンプレスの中心人物となり加入2年目の1987-1988にはACミランのリーグ戦優勝に貢献した。
その後、1シーズンだけACローマでプレー。リーグ戦5得点を決め、すぐにACミランに呼び戻される。
復帰後のミランではファンバステン2トップを組む。マッサーロはこのシーズン自身初の二桁得点を挙げ、ファンバステンの得点の多くを演出した。
1991-1992シーズンからミランはリーグ連覇を果たし、チャンピオンズリーグでは2年連続で決勝に進出し。1993-1994シーズンにはキャリアハイのリーグ戦11得点を挙げ、チャンピオンズリーグでは念願のヨーロッパチャンピオンになる。
マッサーロはFCバルセロナとの決勝で2得点を挙げこの優勝に大きく貢献した。
1994年のアメリカワールドカップには、サッキ監督により12年ぶりにワールドカップメンバーに招集される。
イタリアはエースロベルト・バッジオの不調と、酷暑のためゾーンプレスが機能せず苦戦を強いられる。
グループリーグ突破を賭けたメキシコ戦でもリードを許す展開となったが、途中出場のマッサーロが見事な胸でワントラップからのボレーシュートを決め、イタリアの決勝トーナメント進出に貢献した。
順調に勝ち進み、決勝のブラジル戦では先発出場を果たす。試合はPK戦までもつれ込むが、マッサーロはバレージ、バッジョと共にPKを外しブラジルに敗れている。
マッサーロはこのワールドカップの活躍で、セリエAのインテルなど多くのオファーを受けとる。
その中でマッサーロはJリーグの清水エスパルスへと移籍。年俸は1億円といわれている。
この移籍の理由についてマッサーロは、金銭的な理由ではなく、既に加齢によりミランではプレーの違いを見せる事ができなくなっており、イタリアの他のチームのユニフォームを着る事は選択肢になかったためと語っている。
マッサーロのJリーグ入り後
当時黄金期だったACミランからの移籍という事でマッサーロの移籍は大きく扱われた。
1995年NICOSシリーズ第1節サンフレッチェ広島戦でJリーグデビューを果たす。
第2節の浦和レッズ戦で早くもJリーグ初ゴールを決めると第7節、第9節でもゴールを決める。
特に第7節の名古屋グランパス戦でのゴールは美しかった。
サントスのフリーキックをダイレクトボレーでカーブをかけて決めたシーンは当時何度もメディアで取り上げられた。
しかしその後マッサーロは怪我の為に戦線を離脱。
翌年に復帰すると、1996年4月13日サントリーシリーズ第7節のベルマーレ平塚戦ではハットトリックを達成。
得点以外でも前線からの守備で貢献するが、当時の清水エスパルスのアルディレス監督からはあまり信頼を得る事が出来ず、次第に出場機会が減りこのシーズン限りで退団した。
清水エスパルスでは2シーズンで20試合に出場し10得点という記録を残した。
マッサーロは清水エスパルス退団後、程なくして引退を表明している。
マッサーロの引退後と現在
マッサーロは引退後、ビーチサッカー選手としてビーチサッカーイタリア代表に選出されたほか、ゴルフ、世界ラリー選手権など様々なスポーツイベントに参加。
日本の静岡県静岡市の「お茶大使」も務めるなど日本との交流も続いており、本田圭佑がミランへ加入時はミランの広報担当としてメディアに度々登場したり、ACミランサッカースクールを千葉県に開校する時も来日して記者会見に臨むなど、マッサーロの活躍を見る機会は多い。
清水エスパルスが獲得したワールドクラスの助っ人外国人、マッサーロ。
年俸に見合う活躍ができたかといえば微妙なところではあるが、怪我でピッチを去るときは担架の上で笑顔で正座をしたりなどユニークな一面も見せてくれた。
出場した試合では得点以外にも卓越したテクニックでスタンドを沸かすなどプロフェッショナルなストライカーだった。