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久高友雄の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る第【99回】

豊富な運動量を武器に創世記のガンバ大阪やセレッソ大阪で活躍した久高友雄。

中盤のダイナモとして献身的にチームを支え、その明るい性格で多くの人から愛された。

久高は36歳という若さでこの世を去る事になるがガンバでは苦しいチーム事情を支え、セレッソではまだ若いチームにプロとしての取り組み方を植え付けた。

久高友雄の残した功績は大きい。

久高友雄のプロ入り前


久高は1963年に大阪府に生まれた。

小学校でサッカーを始め、豊中市立第十二中学校へ進学し頭角を現す。

サッカーの強豪である北陽高校へ進学後は昭和53年のインターハイ優勝、第66回全国サッカー選手権大会に出場するなど活躍した。

高校を卒業後、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に加入。

久高は松下の中心人物として本並健治や永島昭浩とともに活躍し、守備的 MFとしてチームを支える。

当時JSL2部所属だった松下電器は1985年のリーグ戦で見事に優勝して1部に昇格した。1990年の天皇杯では優勝を果たす。

1992年、松下電器サッカー部はガンバ大阪へ移行。久高は引き続きガンバ大阪でのプレーを選択する。

久高友雄のプロ入り後

1993年、Jリーグが開幕。久高は背番号8をつけ開幕試合である浦和レッズ戦に出場。1-0の勝利に貢献した。

身長168センチと小柄ながら当たり負けのしない体格と豊富な運動量を武器にピッチ内を走り回った。

NICOSシリーズの第4節サンフレッチェ広島戦では後半75分にJリーグ初ゴールを記録。2-0での勝利に貢献した。

ナビスコ杯の柏レイソル戦では劣勢に立たされながらもメトコフとのワンツーから飛び出し、貴重なゴールをマークした。

しかしガンバ大阪はJリーグ初年度は年間順位7位に終わる。久高は1993年末の選手大量入れ替えの煽りを受け、長年プレーしたチームを退団。

1994年から同じ大阪に本拠地を置く当時JFLのセレッソ大阪へ移籍した。久高はガンバ大阪からセレッソ大阪へ移籍した初めての選手となった。

セレッソに加入後、久高は森島寛晃やマルキーニョスらとセレッソを牽引。

JFL優勝と悲願のJリーグ参入を成し遂げ、久高自身もベストイレブンに選出される活躍を見せた。元ブラジル代表のカレカやバルデスなど外国人選手が5名選ばれる中での選出だった。

1995年、再びJリーグの舞台に戻ってきた久高はセレッソ大阪で10試合に出場。

15年間という現役生活を終えてこの年限りでユニフォームを脱いだ。

久高友雄の引退後

久高は引退後、セレッソ大阪のユース監督やスクールコーチを務めた。

明るい性格で親しまれ、関西のバラエティ番組やサッカー中継でも活躍した。

しかし1999年夏に腹部の痛みを訴えて入院。検査の結果は末期の胃癌と判明。

その後現場に復帰するも、1999年9月22日午前9時41分、36歳で死去した。

4歳からセレッソの下部組織で学んだ柿谷曜一朗にとって久高は憧れの存在だったと話す。

2012年久高の命日に行われた第26節清水エスパルス戦ではゴールを決め、「(C大阪を)支えてくれた人だし、勝てて良かった」と語り、観戦に駆けつけた遺族にユニフォームをプレゼントした。

ミスターセレッソと呼ばれる森島寛晃は、「今ではセレッソを巣立ち、海外で活躍する選手が出てきているが、それもトモさん(久高さん)がチームを引っ張りJリーグのスタートを切れたからこそ」と久高への思いを語っている。

久高は、セレッソ大阪在籍時にこのような言葉を残している。

『負けても下を向くな。俺らはプロでここはホームや。沢山のお客さんやサポーターが見に来てくれてるんやから堂々と顔上げて挨拶しに行こう。一番大事なのは今日の負けを引きずってこれから連敗しない事なんやから。』

久高魂は今も尚、選手達に継承されていく。

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