人は彼をこう呼んだ。
「平成の怪物」
全国高校選手権で大会史上初の2大会連続の得点王。
高校生離れしたその体格を生かしたプレーと、足元の技術の高さに世間は沸いた。
アテネオリンピックのアジア最終予選では高校生でただ一人選出。
誰もが平山の将来に希望をもち、世界と渡り合えるFWがようやく日本にも誕生したと思った。
順調にいけば、それは近い将来に訪れるものだと思っていた。
平山相太のプロ入り前
小学校2年生からサッカーを始め、長崎県の国見中学校に進学。本格的にサッカーを学び始める。
2001年にサッカーの強豪である国見高校に進学すると、1年時から主力として活躍。
前代未聞の2大会連続得点王。通算17得点は歴代最多記録。
3年間で2度の全国優勝と1度の全国準優勝を経験した。
そして平山は全国大会の活躍が評価され、ワールドユース日本代表に飛び級で選出。
後の日本代表となるGK川島永嗣(RCストラスブール)や坂田大輔(元横浜マリノス)など、先輩の選手とプレーをすることになったが、臆することなくプレー。
2得点をあげ、日本を8強に導く活躍をみせた。
身長190㎝の体格と、足元の確かな技術はワールドクラスのFWを夢見るのに十分だった。
平山はどこのクラブにいくのか、連日のように新聞やニュースで取り上げられた。
数々の思惑が行きかう中、平山はプロではなく、大学進学の道を選ぶ。
この選択は当時、様々な議論をよんだ。
賛否両論の意見が飛び交う中、平山は筑波大学に進学。
サッカー解説者のセルジオ越後は平山の大学進学についてこう語っている。
「飛び級でオリンピック代表に選ばれるほどの大器がなぜプロではなく大学進学を選んだのか、つまり大学生活がJリーグよりも魅力があったということで、Jリーグに夢が無いからだ」
大学リーグデビュー戦(関東大学リーグ1部・対流通経済大学戦)は3800人の観衆が集まるなど注目を集めた。
同年のリーグ戦最終節では2得点1アシストを挙げ、優勝に貢献した。
平山はU-23日本代表に選出され、同年2月8日の国際親善試合・イラン戦で初先発し初得点を挙げる。
しかし U-19日本代表にも並行してよばれ続け、オーバートレーニング症候群の一歩手前に陥る。
このことでJリーグクラブへの特別指定選手登録を回避され、U-23代表では予選で控えだった高松大樹にレギュラーを奪われた。
2005年6月に自身二度目となるワールドユースに出場。
オランダ戦で得点を決める。
7月にオランダ1部リーグ「フェイエノールト」の練習生として短期留学。
翌8月にこのシーズンから1部入りしたヘラクレス・アルメロに3年契約で入団することが決まった。
筑波大学を休学することになった。
この時期の心境について平山はこう語っている。
「2度目のワールドユースに出場し、2003年のワールドユースの時の自分から何も変わっていない、成長していない。厳しい環境に身を置きたいと強く思った」
ヘラクレスに入団したその月にデン・ハーグ戦でプロ公式戦デビューを飾る。
平山は後半途中から出場すると、2分後に味方のフリーキックからヘディングで押し込みプロ初ゴール。
さらにコーナーキックの折り返しを再び頭で合わせ、デビュー戦2得点でチームを逆転勝利に導いた。
平山はそのシーズン、途中出場が多かったものの、8得点をあげてチーム得点王となった。
平山は休学していた筑波大学を退学してサッカーに専念することを決めた。
しかし翌シーズン。
監督が代わり、新たな監督から信頼を得られずに出場機会が激減。
監督の構想外となり、夢半ばの中、日本に帰国するととなる。
平山相太のJリーグ入り後
日本に帰国した平山はFC東京に加入。
2006年、9月30日の対アルビレックス新潟戦でJリーグデビュー(先発出場)を果たした。
この年は7試合に出場し2得点。
翌シーズンは20試合に出場し5得点をあげたが、平成の怪物とまでいわれたスケールの大きさからすれば、その数字はあまりにも寂しすぎた。
平山は2008年の北京五輪のメンバーから落選。
メンタル面の課題が浮き彫りとなり、それに加えて度重なる怪我も平山を苦しめた。
しかし、チャンスが訪れる。
2010年1月、平山は日本代表に選出。
デビュー戦となったアジア杯最終予選のイエメン戦でハットトリックを達成。
日本代表史上2人目となるデビュー戦ハットトリックだった。
「ようやく怪物が目を覚ました」
新聞や雑誌はこぞって平山の覚醒を期待した。
しかし中々コンディションがあがってこない平山は、その後数試合よばれたのみで代表に定着することはできなかった。
その後FC東京には2014年まで在籍するも、怪我の影響もありシーズンを通して2桁得点を記録することはなかった。
2017年からベガルタ仙台に移籍。
心機一転、活躍を誓うも怪我は完治せず、そのシーズンは試合に出場できなかった。
そして平山はそのシーズンが終わると引退を決意。
Jリーグ169試合出場。33得点という数字を残して平山はユニフォームを脱いだ。
平山相太の引退後と現在
平山は引退後、仙台大学に進学しトップチームコーチを務めた。
2022年には筑波大学蹴球部コーチに就任ししている。
平山は今度は指導者として一から学びたいと話す。
「色んな監督と関わってきて、どの監督も自分のサッカーを持っていて、すごさを感じた。選手とはまた違うプレッシャーを自分も感じてみたい。自分のサッカーをつくっていきたいと思っています」
選手としては大成できなかったかもしれない。
しかしそれは平山に対する周囲の期待が大きすぎたからであって、
競争の激しいJリーグで32歳まで現役を続けられたことは大きな財産となったはずだ。
世界と対等に戦えるFW。
今度は指導者の立場で平山は戦っていく。