恵まれた身体を生かしたダイナミックなセービングと最後尾からの的確なコーチングが持ち味のGK榎本達也。
大舞台に強く、PK戦では神懸かりなセーブを連発。マリノス時代は2001年のナビスコカップ決勝で3本のPKを止め大会MVPに選出。2004年にはチャンピオンシップで2本のPKを止めマリノスのJリーグ連覇に貢献した。
正確なロングフィードや高速スローインも大きな武器で、カウンター攻撃の起点にもなった。
現役引退後はGKコーチと並行してブラインドサッカー日本代表としても活躍している。
榎本達也のJリーグ入り前
7歳の時にサッカーを始め、蕨市北町サッカースポーツ少年団に所属する。ポジションは最初からGKだった。
蕨市立第二中学校卒業後、浦和学院高校へ進学。
高校時代は選手権への出場は叶わなかったが埼玉県選抜として国体に出場。技術のある身長190センチの大型GKとして注目を集めた。
高校卒業後、潜在能力の高さを評価され横浜マリノスに入団する。
榎本達也のJリーグ入り後
1997年にマリノスに入団するが、川口能活が絶対的守護神として君臨していた為、入団後3年間はリーグ戦への出場機会は無かったが年代別日本代表には召集され1998年アジアユース、1999年ワールドユースに参加した。
4年目の2000年8月5日2ndステージ第8節鹿島アントラーズ戦で右足を負傷した川口に代わり後半途中からJリーグ初出場。2001年10月に川口が欧州リーグ挑戦の為に退団すると正GKの位置を確保。 2001年10月27日のナビスコカップ決勝では0-0で迎えたPK戦で、磐田のシュートを3本止め、チームに賞金1億円をもたらす。榎本はこの大会のMVPを獲得した。
2002年は正GKとしてリーグ戦全試合に出場。2003年は榎本哲也の台頭により出場試合を半分ずつ分け合いながらもリーグ制覇に貢献。2004年はリーグ戦全試合に出場しステージ優勝を達成。年末に行われた浦和レッズとのチャンピオンシップでは、PK戦で相手PKを2本止めるなど神懸かりな活躍を見せマリノスのJ1連覇に貢献した。
その後は2005年、2006年と再び榎本哲也と激しいポジション争いを繰り広げた。
2007年、ヴィッセル神戸へ移籍。 神戸では勝ちきれない試合が続きながらも決定的な場面で見せる驚異的なシュートストップでピンチを救う。また正確なロングフィードで攻撃の起点にもなった。シーズンオフにはイタリアに渡り、イタリア代表GKブッフォンから直々に指導を仰ぐなど充実したトレーニングを積んだ。
2011年はJ2徳島ヴォルティスへ移籍。
しかしシーズン前にアキレス腱を断裂する大怪我を負い、終盤に復帰するもののリーグ戦4試合の出場に留まった。2012年はリーグ戦10試合に出場するがチームの状態が上向かず中盤戦にはベンチに降格。この年限りで徳島を退団した。
2013年からはJ2栃木SCへ移籍。
栃木では開幕戦からレギュラーとして活躍するも3月31日のJ2第6節群馬戦で顔面裂傷の怪我を負い離脱。その後復帰しリーグ戦36試合に出場した。翌年はベンチに回る機会が多くなりこの年をもって栃木を退団。
2015年からはFC東京へ移籍。
日本代表GK権田修一の控えという役回りだったがベテランとしてチームを支える。2015年で権田が退団するも2016年の正GKには秋元陽太が起用された。
2016年のシーズンをもって東京との契約が満了。榎本は現役を引退した。
榎本達也の引退後と現在
榎本は2017年よりFC東京普及部コーチに就任。明治大学のGKコーチとしても活躍している。
また2017年からはブラインドサッカー日本代表GKとしてプレー。ブラインドサッカーのGKは目の見える人が担う事になっており、榎本は2020年のパラリンピックを目指した。
現役引退からしばらくしてブラインドサッカーに誘われた榎本は、サッカーとのあまりの違いに驚いたという。ブラインドサッカーのGKは狭いエリアから出ることは出来ない。フィールドでプレーしているのは全盲の選手達。榎本は選手たちに事細かにコーチングをしないといけない。長年プレーしてきた通常のサッカーのそれとはあまりにも違う世界だった。
それでも榎本は選手たちの情熱に触発され、次第にブラインドサッカーにのめり込んでいく。2017年4月にはブラインドサッカー日本代表の強化選手に指定され、アジア選手権にも出場を果たした。
今、榎本達也はコーチとしてJリーグに携わり、プレイヤーとしてパラリンピックを目指す日々を送っている。ミーティングでは妥協を許さず嫌われ者になってもいい覚悟で選手たちと勝つための議論を交わした。すべては黄金に輝くメダルを獲得するために。